小田島孤舟(おだしま こしゅう、1884年3月1日 - 1955年12月4日)は、岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身の歌人・教育家
・書道家。「岩手歌壇の父」と言われる。本名は小田島理平治。旧姓は佐々木。明治17年3月、和賀郡小山田町の農家の二男として生まれる。
明治35年、19歳で「小国民」懸賞小説に二等当選。同年4月、岩手師範学校本科に入学。
明治37年、同校文芸同人誌「花摺草」に短歌、俳句、美文「わが罪」を発表。翌38年7月、石川啄木を訪問し交際が始まる。
与謝野鉄幹は、「君は短歌より長詩の方が優る」と手紙でいさめたが、結果的には石川啄木が小田島にあてた書面「和歌は現代に新価値あり」に動かされ歌人を目指すことになった。
窪田空穂、金子薫園、平野万里、与謝野鉄幹に短歌の指導を仰ぐ。
明治41年、浄法寺に岩手新詩社を起こし、回覧雑誌「ホノホ」を出したが、数号で消滅する。翌年、「ホノホ」が文芸誌「曠野」として再出発する。この時期、小田島が渉外で最も充実した時期であり、理想主義から自然主義に転換するきっかけとなった[1]。
年譜
昭和20年、第一回岩手文芸功労賞受賞。
昭和26年5月、第二歌碑を浄法寺町安比川湖畔に建立。
昭和28年、日本歌人クラブ委員。
脚注^ 岩手日報社出版部「岩手の先人100人」岩手日報社 昭和62年12月