小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄上郡足柄下郡、駿河国駿東郡の一部などを治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。 1590年(天正18年)の小田原征伐で小田原の後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、徳川家康が関東に入部し、東国の押さえとして譜代の大久保忠世を小田原城主とした。領国は足柄上郡、下郡147か村4万石であった。1594年(文禄3年)、忠世が没すると、嫡子忠隣が後継となり、武蔵羽生に2万石を加増された。忠隣はさらに老中として幕閣に入ったが、1614年(慶長19年)に改易となり、小田原城は破却され、以後5年間は番城となった。 1619年(元和5年)、上総大多喜城主・阿部正次が5万石で小田原へ入封したが、4年後には岩槻藩に転封となった。小田原城は再び番城となる。 1632年(寛永9年)、下野真岡藩から稲葉正勝が8万5千石で入封した。正勝は第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の子で、正勝ののちは正則、正往と続いた。いずれも幕府の老中に就任している。この稲葉家の時代に藩の治世が確立した。稲葉氏は1685年(貞享2年)に越後高田藩へ転封する。 1686年(貞享3年)に、下総佐倉藩主・大久保忠朝が10万3千石で入封した。忠朝は小田原藩最初の藩主・大久保忠世から5代目にあたり、当時は幕府の老中であった。以後は幕末・明治初頭まで大久保家の支配が10代続いた。なお、大久保家の歴代藩主の多くが幕閣として活躍したが、そのために出費も重なり、財政難にあっている。 1707年(宝永4年)に富士山の宝永噴火で領内の広い範囲で農業が困難になる。翌年、藩領のうち被害が甚大な駿河国駿東郡や相模国足柄上郡、足柄下郡、淘綾郡、高座郡の約5万6384石・197か村が幕府直轄領となり、村々は復興するにしたがって小田原藩に戻された。小田原藩はその間、別の地域を領地として与えられた[1]。 譜代 - 4万5千石→6万5千石 代氏名よみ官位・官職在任期間前藩主との続柄・備考 譜代 - 5万石 代氏名よみ官位・官職在任期間前藩主との続柄・備考 譜代 - 8万5千石→10万2千石 代氏名よみ官位・官職在任期間前藩主との続柄・備考 譜代 - 10万3千石→11万3千石→7万5000石 代氏名よみ官位・官職在任期間前藩主との続柄・備考 明治維新後に、足柄上郡6村、足柄下郡3村、淘綾郡17村、大住郡5村(いずれも旧旗本領)が加わった。
藩史
歴代藩主
大久保家
1忠世ただよ1590年 - 1594年
(天正18年 - 文禄3年)大久保忠員の長男
2忠隣ただちか相模守従五位下1594年 - 1614年
(文禄3年 - 慶長19年)先代の長男
阿部家
1正次まさつぐ従四位下行備中守1619年 - 1623年
(元和5年 - 元和9年)阿部正勝の長男
稲葉家
1正勝まさかつ従五位下行丹後守1632年 - 1634年
(寛永9年 - 寛永11年)稲葉正成の3男
2正則まさのり従四位下行美濃守1634年 - 1683年
(寛永11年 - 天和3年)先代の2男
3正往まさみち従四位下行丹後守兼侍従1683年 - 1685年
(天和3年 - 貞享2年)先代の長男
大久保家
1忠朝ただとも従四位下
加賀守・侍従1686年 - 1698年
(貞享3年 - 元禄11年)大久保教隆の2男
大久保忠職(忠隣の孫)の養子
2忠増ただます従四位下
加賀守・侍従1698年 - 1713年
(元禄11年 - 正徳3年)先代の長男
3忠方ただまさ従四位下
加賀守1713年 - 1732年
(正徳3年 - 享保17年)先代の長男
4忠興ただおき従四位下
大蔵大輔1732年 - 1763年
(享保17年 - 宝暦13年)先代の長男
5忠由ただよし従五位下
加賀守1763年 - 1769年
(宝暦13年 - 明和6年)先代の長男
6忠顕ただあき従五位下
加賀守1769年 - 1796年
(明和6年 - 寛政8年)先代の長男
7忠真ただざね従四位下
加賀守・侍従1796年 - 1837年
(寛政8年 - 天保8年)先代の長男
8忠愨ただなお従四位下
加賀守1837年 - 1859年
(天保8年 - 安政6年)先代の孫
大久保忠脩の長男
9忠礼ただのり従五位下
加賀守1859年 - 1868年
(安政6年 - 明治元年)讃岐高松藩主松平頼恕の7男
10忠良ただよし従五位下
加賀守1868年 - 1871年
(明治元年 - 明治4年)相模荻野山中藩主大久保教義の長男
幕末の領地
相模国
足柄上郡のうち - 89村
足柄下郡のうち - 88村
淘綾郡のうち - 8村
大住郡のうち - 20村(神奈川県に編入)
愛甲郡のうち - 3村(同上)
津久井郡のうち - 15村(同上)
駿河国
駿東郡のうち - 8村(静岡藩に編入)
富士郡のうち - 4村(同上)
伊豆国
君沢郡のうち - 13村(韮山県に編入)
田方郡のうち - 7村(同上)
摂津国
東成郡のうち - 5村(大阪府に編入)
住吉郡のうち - 8村(同上)
河内国
交野郡のうち - 13村(河内県に編入)
河内郡のうち - 5村(同上)
大県郡のうち - 6村(同上)
若江郡のうち - 4村(同上)
志紀郡のうち - 4村(同上)
安宿部郡のうち - 1村(同上)
古市郡のうち - 1村(同上)
高安郡のうち - 2村(うち1村を河内県、1村を堺県に編入)
丹南郡のうち - 3村(うち2村を河内県、1村を堺県に編入)
丹北郡のうち - 4村(うち2村を河内県、2村を堺県に編入)
小田原県
1869年7月25日(明治2年6月17日) - 版籍奉還により、明治政府の行政区画としての小田原藩が成立する。同日から8月2日(6月25日)までの間に、最後の小田原藩主・大久保忠良が知藩事に任命される[2]。
1871年8月29日(明治4年7月14日) - 廃藩置県により小田原藩が廃止され、大久保忠良は免官となり、小田原県が設置される[3]。
1871年12月25日(明治4年11月14日) - 小田原県が、足柄県となる[4]。
脚注[脚注の使い方]^ 中央防災会議『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 1707 富士山宝永噴火』、2006年3月 - ⇒第4章一次災害への国家的対応と社会的影響 (PDF)
^ 法令全書第4冊明治3年太政官布告第544〔参照〕藩知事表
^ ⇒立庁記念日 - 神奈川県
^ 明治4年太政官布告第594
関連項目
報徳仕法
外部リンク
⇒小田原(大久保加賀守忠顕) 。大名家情報 - 武鑑全集
歴
大政奉還から廃藩置県までの間に存在した藩
慶応3年(1867年)旧暦10月 - 明治4年(1871年)旧暦7月
北海道地方
松前藩(館藩)
東北地方
黒石藩
弘前藩
八戸藩
●○盛岡藩(白石藩 → 盛岡藩)
盛岡新田藩(七戸藩)
一関藩
久保田藩(秋田藩)
秋田新田藩(岩崎藩)
亀田藩
本荘藩
★矢島藩
出羽松山藩(松嶺藩)
仙台藩
鶴岡藩(大泉藩)
新庄藩
○長瀞藩(大網藩 → 龍ヶ崎藩)
天童藩
○山形藩(朝日山藩)
上山藩
米沢藩
▲米沢新田藩(米沢藩)
○福島藩(重原藩)
下手渡藩
二本松藩
○会津藩(斗南藩)
中村藩
三春藩
○守山藩(松川藩)
磐城平藩
湯長谷藩
泉藩
○白河藩(棚倉藩)
関東地方
沼田藩
館林藩
伊勢崎藩
前橋藩
高崎藩
安中藩
●吉井藩
七日市藩
小幡藩
大田原藩
黒羽藩
○高徳藩(曾我野藩)