小田原地震
[Wikipedia|▼Menu]

小田原地震(おだわらじしん)は、神奈川県西部の小田原市周辺で発生する地震である。フィリピン海プレートの一部にあたる伊豆半島と、日本列島のプレートとが衝突して沈み込めないため、小田原市周辺では地震が発生しやすいと考えられている[1]。過去に数回発生しており[2]、再来周期はほぼ73年である[2]。小田原市周辺で過去に発生した主な地震としては、寛永小田原地震(1633年)、慶安小田原地震(1648年)、天明小田原地震(1782年)、嘉永小田原地震(1853年)などがあげられる。1645年正保2年)、1647年(正保4年)、1870年明治3年)にも発生したとされているが、いずれも小被害である。さらにこれらの地震に、相模トラフ沿いで発生した元禄地震(1703年)および関東地震(1923年)を加えると、平均で70年程度の周期で地震が起きていることになる[1]。本記事では、江戸時代の地震に於いては発生時の元号を冠し区別している。
寛永小田原地震

寛永小田原地震
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}

震源地
本震
発生日1633年3月1日(寛永10年1月21日)
震央神奈川県西部
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度12分 東経139度12分 / 北緯35.2度 東経139.2度 / 35.2; 139.2 [3]
規模   M7.1 - 7.2程度(M7.0とも)
最大震度   震度7:神奈川県小田原市など(推定)
津波小田原で最大11.9m(ほか熱海市など)
地すべりあり
被害
死傷者数死者150人
被害地域日本 神奈川県西部(小田原市など)

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示

寛永10年1月21日1633年3月1日[4]に発生。マグニチュード 7.1-7.2[5](7.0とも)。小田原で最も強く揺れ、小田原城矢倉、門塀などに被害が出た。民家倒壊も多く、150人が圧死により死亡。箱根山崩れが起こる。海に近い熱海や網代で津波の被害が出た[2]
慶安小田原地震 震源地

慶安元年4月22日 (1648年6月13日)に発生。マグニチュードは7.0程度。小田原城破損。死者1人。箱根で落石。領内で潰家が多かった[6]
天明小田原地震

天明小田原地震

震源地
本震
発生日1782年8月23日(天明2年7月15日)
震央神奈川県西部
座標北緯35度24分 東経139度06分 / 北緯35.4度 東経139.1度 / 35.4; 139.1 [7]
規模   M7.0程度
地すべりあり
被害
被害地域日本 神奈川県など

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示

天明2年7月15日(1782年8月23日)[8]。マグニチュード 7.0程度(7.3[2]とも)。月初めより前震あり、被害は大きく、小田原城の石垣に被害が出る[5]。民家は約一千戸が倒壊し、江戸でも死者。箱根山大山富士山で山崩れが発生した。熱海で津波が有ったとの記録がある[9]。なお、宇佐美龍夫(1984)らは震源は足柄平野にあり小田原地震には該当しないとの見解もある[10]。一方、都司嘉宣は震源域は海底下まで伸びていたとしている[9]
嘉永小田原地震

嘉永小田原地震
嘉永小田原地震の震度分布

震源地
本震
発生日1853年3月11日(嘉永6年2月2日)
震央神奈川県小田原市付近
座標北緯35度18分 東経139度09分 / 北緯35.3度 東経139.15度 / 35.3; 139.15 [11]
規模   M6.7
最大震度   震度7:神奈川県小田原市など(推定)
被害
死傷者数死者24人
被害地域神奈川県を中心とした関東地方

プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示

嘉永6年2月2日(1853年3月11日)[12][13][注釈 1]。マグニチュード6.7程度。推定されている各地の震度は、6から7が小田原(特に東南部)・塚原・金子、6が布川・中沼・関本・山田・矢倉沢・最乗寺・高尾、5強から6が川村・中日向・巣雲川・仙石原[14]で、江戸でも震度4から5程度の揺れであったとみられている[15]。本震は午前10時過ぎ頃に発生し、10分から15分の間に2度の地震が起こったと考えられている[16]。本震後も余震が続いたが翌日夕方4時頃に最大余震があり、さらに被害が出た[17]

最も強く揺れた小田原では、天守の瓦や壁が落ち[2]小田原城三の丸の藩校集成館が倒壊した[16]。全壊した家は1,032戸、半壊した家は2,477戸、被害が出た家は544戸。死者も24人出た。箱根、根府川関所にも被害が出た。箱根など341か所で山崩れが起こり、真鶴(真鶴町)にも被害を与えた[2]。真鶴湊では津波による引き波がみられたが被害はなかった[17][18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:48 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef