小田切 秀雄人物情報
生誕 (1916-09-20) 1916年9月20日
日本東京都
死没2000年5月24日(2000-05-24)(83歳)
出身校法政大学
学問
研究分野日本文学
研究機関法政大学
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小田切 秀雄(おだぎり ひでお、1916年(大正5年)9月20日 - 2000年(平成12年)5月24日) は、日本の文芸評論家・近代文学研究者。法政大学名誉教授。 1916年、東京都生まれ。府立高等学校尋常科を経て高等科文科1年の時、1933年、学内の共産党グループのキャップとして治安維持法違反で警視庁目黒署に逮捕され、75日間勾留後に「軽はずみでした、もうしません」と宣誓書を書いて転向し、起訴猶予処分で釈放され、高等学校から諭旨退学処分を受ける。1935年、学生運動に参加せず学業に専念することを条件として法政大学予科に編入学を認められる。法政大学国文科卒業。 1941年、『万葉の伝統』で注目されたが、1943年応召、1944年に荒正人や佐々木基一とのマルクス主義文学研究会が原因で再び治安維持法違反に問われ逮捕されたが、結核により勾留停止となり釈放。戦後、雑誌『近代文学』の創刊に加わる。 法政大学教授を務め、1965年の学園紛争で学長と理事が総辞職した際には総長代行を務めた。 古典から現代作家までの幅広い評論をおこなった。マルクス主義芸術論による執筆が多い。国語教師の研究団体である教育科学研究会・国語部会に協力し、長年にわたって機関誌『教育国語』(むぎ書房)に文芸学や作品鑑賞論などを連載した。著作は『小田切秀雄全集』全18巻としてまとめられている。墓所は小田原市高長寺。 戦時中は『少国民』に「キミガヨ」の「ありがたさ」を説いた翼賛的な作品を書いていたが[1][2]、1946年創刊の『文学時標』では「純粋なる文学の名において、かれら厚顔無恥な、文学の冒涜者たる戦争責任者を最後の一人にいたるまで、追求し(ママ)、弾劾し、読者とともにその文学上の生命を葬らんとするものである」[3]と謳い、毎号「文学検察」欄で戦争協力文学者を糾弾。このため、のちに「小田切は自分のことは棚に上げ、他の『戦争責任者』を追及しはじめた」と批判された[4]。1950年に何かの座談会の帰り道で「君も党へ入りませんか」と三島由紀夫を共産党に勧誘するも、三島は意外さにびっくりしたまま口がきけず、そのまま満員電車の人波で2人は別々になり話が途切れてしまった[5]。三島は後に、人生で最も稀有な嬉しい誘いの言葉の1つとして回顧している[6]。ただし小田切秀雄は「わたしは、ほんとうに三島を入党させるつもりでそういったのではない」と述べている[7]。
経歴・人物
業績・評価
受賞・栄典
1975年:芸術選奨文部大臣賞に選ばれるが辞退。
1988年:『私の見た昭和の思想と文学の五十年』で毎日出版文化賞受賞。
家族・親族
父・小田切利通(1892-) ‐ 金万証券取締役。山梨県中牧村今浅次郎二男。安田保善社銀行員養成所卒業後、同社書記、第三国立銀行勤務を経て兜町の加賀豊三郎店に転ず。[8]
伯父:母方の伯父に医学者杉田直樹がいる[9]。
妻・みゆき(1916-) ‐ 東京女子医学専門学校卒。同校付属病院勤務。[8]
弟:小田切進も文芸評論家。
長男:小田切有一は馬主として有名な実業家である。
著書
『万葉の伝統』光書房 1941 のち講談社学術文庫
『夜明けのために 江戸時代の学者』丹波書林 1946
『人間と文学』河出書房 1946
『文学の端緒』世界評論社 1947
『文学的主体の形成』昭森社 1947
『日本の近代文学』真光社 1948
『自我と文学の現実』雄山閣 1948
『プロレタリヤ文学再検討』雄山閣 1948
『文学の窓』玄理社 1948
『民主主義文学論』銀杏書房 1948
『抒情の解放 短歌俳句への要求』八雲書店 1948
『人間的理想と文学』くれは書店 1948
『文学論』河出書房 1949