この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "小田久栄門"
おだ きゅうえもん
小田 久榮門
生誕 (1935-11-28) 1935年11月28日
新潟県朝日村
死没 (2014-10-30) 2014年10月30日(78歳没)
東京都
死因肝がん
国籍JPN
出身校専修大学
職業テレビプロデューサー、実業家
テンプレートを表示
小田 久榮門(小田 久栄門、おだ きゅうえもん、1935年(昭和10年)11月28日 - 2014年(平成26年)10月30日)は、日本のテレビプロデューサー。テレビ朝日取締役編成局長、テレビ朝日映像、ビーエス朝日で社長等を務めた。
当時同局に在籍していた皇達也と共に、テレ朝の天皇の異名で知られた[1]。 新潟県朝日村(現:村上市)で生まれる[2]。故郷で教師になろうと専修大学に入学[2]。ところが叔父がTBSに勤めていた関係で、大学3年のときからTBSでアルバイトするようになり、テレビの仕事が面白くなって、日本教育テレビ(NETテレビ。後のテレビ朝日)開局の前年の11月に契約社員として入社し、翌年3月に正式入社となり、教養部に籍を置いた[2]。 最初は『暮らしの医学』『美術サロン』など教養番組のアシスタント・ディレクターから始め[2]、1963年(昭和38年)にはサウジアラビアを取材し、『アラブの赤と黒?世界に中の日本人?』という取材記録の単行本を執筆した[3]。海外取材に興味を持った小田は、続いて『世界の女』、『世界の王様』シリーズを制作。昭和30年代の末期は海外にばかり出かけた。「こうした海外取材の経験は、私に共同作業のやり方、人間関係の大切さを教えてくれた。番組は決して一人では作れるものではないことを知らされた。ベテランのカメラマンに映像のつかまえ方を実地に鍛えられた。そして集団作業の中でのコミュニケーションのあり方を勉強した」と語っている[3]。 1967年(昭和42年)7月、『モーニングショー』の総合プロデューサーを引き受けるよう三浦甲子二から言われる[3]。
人物・経歴