小牧山
小牧山
標高85.86[1] m
所在地 日本
愛知県小牧市堀の内一丁目1
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度17分33秒 東経136度54分49秒 / 北緯35.29250度 東経136.91361度 / 35.29250; 136.91361
かつて織田信長の居城であった、小牧山城(日本の城)があった。現在は山全体が公園となっており、桜の名所としても知られる。公園の分類は「史跡公園」。
なお現在、山頂にある天守閣風建物は、1967年(昭和42年)に建てられたものである(小牧市歴史館(小牧城)参照)。 平野の真中にある為、山の頂上にある小牧城からは周囲を見渡す事ができる。 山の大きさは、東西約600メートル、南北約400メートルである。 山全体の総面積は、約21ヘクタール。 かつてこの山の頂上には、織田信長の命令により、山城が建てられていた。この城は、後に徳川家康が小牧・長久手の戦いで使用した事で有名である(この城については、下記の「小牧山城」参照)。 公園内には、かつての城跡や、曲輪(くるわ)や井戸の跡、土塁を復元した物などの歴史的資料が展示されている。 桜の名所としても、有名である。 北部に、タブノキがある。タブノキは、この地方では小牧山のみに自生している。 全国にある城下町の嚆矢といわれる。 logo小牧山城 小牧山城(こまきやまじょう)は、日本の城。織田信長が美濃攻めの拠点として築城し、後の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康の陣城となった。 濃尾平野の独立峰である小牧山に築城された城で、織田信長が美濃攻めを終えるまでの4年間しか使用されなかった。このため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見された。これにより小牧山城は戦時急造の城ではなく、清洲城に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる。 南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている。途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の安土城の縄張りとの類似性が指摘されている。 標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固め、中腹も削平して数多くの曲輪を構築している。 平成17年度(2005年)に行われた第2次試掘調査で現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された。永禄期の大手道は、山側谷側にもそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。道幅は約5mで、道に並行して幅 20cmの排水溝を設置していた。この構造は安土城の正面にある大手道と構造的に似通っており、安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されている。 小牧・長久手の戦いの際には、陣城として大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、要所には防衛用の虎口を設けた。 小牧山築城以前は尾張村を開拓した尾張氏の地であった。元々天照国照の神聖な場であった事が確認されている。現代の発掘結果等から、寺院などの宗教関係の施設も存在していたと考えられている。また間々観音に残る縁起(寺院の沿革)では、「元は小牧山に寺院(間々観音)があったが、織田信長の命によって、現在の地に移設された」とある。また、間々観音は正式には「飛車山龍音寺」であるが、この「飛車(ひくま)山」は小牧山の古い呼び名のひとつであるとされる。 織田信長は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)の桶狭間の戦いに勝利した後、念願の美濃国併呑を実現すべく、早くもその3ヶ月後から美濃攻めを開始した。永禄5年1月15日(1562年2月18日)には徳川家康と清須城においていわゆる清洲同盟を結び、尾張国東側の脅威が消滅した。これによって、信長は全力で美濃国を攻める体制を整えるために、美濃国に近い尾張国北方へ本拠地を前進する策が実施可能となった。この新しい本拠地に選ばれたのが、広大な濃尾平野の中に孤峰を保つ小牧山であった。丹羽長秀を奉行として小牧山山頂に城を築き、永禄6年(1563年)7月には主要兵力を小牧山の城に移した。『定光寺年代記』に拠れば城は信長により「火車輪城」と名付けられた。 信長家中の小牧山移転の際のエピソードがある。清須から北方へ移転するという噂が織田家中で囁かれ、誰もが不服に思っていた。そこで信長は一計を案じ、小牧山よりさらに北方の丹羽郡二ノ宮山(現在の愛知県犬山市楽田地区二ノ宮の本宮山)に城を築き移転すると布告した。当然、清須城内は反対一色となった。信長は反対意見が十分に出た頃を見計らい、家中の意見を吟味した結果として、二ノ宮山よりは清洲城に近い小牧山への移転に変更することを申し渡した。すると今度はほとんど反対意見もなく、皆が小牧山への移転に同意したという[2]。この計略は人間心理を巧みに利用したものであり、似たようなエピソードが古今東西に存在するため真偽は不明であるが、文明年間以来、約80年間にわたって守護所として栄え、家臣らが各々の屋敷を持つ清須から他の地へ移ることへの抵抗が大きかったことが推測される。 従来小牧山城は、後述のように4年間しか使用されなかったため、従来は「美濃攻略のための(土塁などの簡素な作りによる)仮住まいの城」と考えられていたが、平成16年(2004年)からの試掘調査で城の主郭の四方を石垣で囲んだ本格的な城であることが判明し、当初信長は長期滞在も考えていた可能性が指摘されている[4]。また、山麓南側から西側にかけては、清須から移転させた城下町が形成された。移転後、織田軍は小牧山城を本拠地として美濃への侵攻と調略を繰り返し、永禄10年8月15日(1567年9月17日)、美濃斎藤氏の本拠地であった稲葉山城は落城。
概要
小牧山城
(愛知県)
城郭構造平山城
築城主織田信長
築城年永禄6年(1563年)
主な城主織田氏、徳川氏
廃城年永禄10年(1567年)
遺構石垣、曲輪、井戸、土塁
指定文化財国の史跡(史跡小牧山)
地図 小牧山城
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小牧山城1987年度(昭和62年)に撮影された国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス
構造
歴史
小牧山城築城以前
信長による築城と廃城
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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