塩飽諸島塩飽諸島
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地理
場所備讃瀬戸(瀬戸内海)
諸島備讃諸島
塩飽諸島(しわくしょとう)は、瀬戸内海に浮かぶ諸島。香川県に属しており、小豆島(香川県)や笠岡諸島(岡山県)とともに備讃諸島と称される[1]。塩飽島(しわくじま)とも呼ばれ、岡山県と香川県に挟まれた西備讃瀬戸に浮かぶ大小合わせて28の島々から成る。名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。目次
1 歴史1.1 戦国時代1.2 江戸時代1.3 明治以降
2 各島の概要
本島広島牛島与島手島小手島高見島志々島佐柳島粟島 海流の速い備讃瀬戸海峡に位置していることもあり、塩飽諸島の住民は古代から通商と海上交通(操船)で生計を立てた[2]。源平合戦における屋島の戦い、建武の新政から離反し九州に逃れた足利尊氏の再上洛の戦い、倭寇などで活動したとする説がある。また、法然が1207年(建永2年・承元元年)の承元の法難の際、流刑先の讃岐国にむかう途中、一時滞在している[3]。 海賊島として知られたこともあったが、鎌倉時代以降に海賊は藤原家資 16世紀になると操船に長けた島の船乗りたちは塩飽水軍として知られるようになり、瀬戸内海にとどまらず遠くにまで名を馳せた[2]。戦国時代には租税となる米などの貴重品の輸送や高官の移動などに貢献し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康からも高く評価された[2]。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉は朱印状で御用船方となる人名(にんみょう)の制度を確立させた[4]。人名とは島の石高1250石の領有を認められる一方、公儀の海上輸送義務を負った650人の加子役をいう[4]。ただし、塩飽から出役した者は450人に過ぎず、不足については船200艘を船方200人として物成高を分配した[4]。 江戸時代に入っても朱印状により人名の制度は維持され[4]、これによって17世紀初頭までには一種の自治権が与えられることとなった[2]。なお、人口増加により天和3年(1683年)に200の人名が新たに追加され、もとの450を旧加子、新たに追加されたものを新加子として区別した[4]。 塩飽諸島は天領として大坂町奉行直属とされ、人名の制度のもとで年寄、年番、庄屋、組頭などの役職を置いて自治が行われた[4]。
歴史
近世