小澤征爾
[Wikipedia|▼Menu]

小澤 征爾
2015年
基本情報
出生名小澤 征爾
生誕 (1935-09-01) 1935年9月1日
満洲国 奉天省奉天市
(現:遼寧省瀋陽市)
出身地 日本
死没 (2024-02-06) 2024年2月6日(88歳没)
日本 東京都世田谷区
学歴桐朋学園短期大学
ジャンルクラシック音楽
職業指揮者
活動期間1959年 - 2024年
配偶者江戸京子(1962年 - 1966年)
入江美樹(1968年 - 2024年)
著名な家族父:小澤開作
兄:小澤俊夫
弟:小澤幹雄
長女:小澤征良
長男:小澤征悦
公式サイトセイジ・オザワ 松本フェスティバル
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

小澤 征爾(おざわ せいじ、1935年昭和10年〉9月1日 - 2024年令和6年〉2月6日)は、日本の男性指揮者。1973年からボストン交響楽団の音楽監督を29年間[1]務め、2002年 - 2003年のシーズンから2009年 - 2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員[2]ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督、小澤征爾音楽塾塾長・音楽監督、新日本フィルハーモニー交響楽団桂冠名誉指揮者など[3]
人物・生涯1963年
生い立ち

満洲国奉天省奉天市(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)で生まれる。父小澤開作歯科医師満洲国協和会創設者の一人で、同志で満洲事変の中心人物であった板垣征四郎石原莞爾から一字ずつ貰って第三子を「征爾」と命名した[4][5]。1941年3月に父を満洲に残したまま母や兄と日本へ戻り、東京府立川市の若草幼稚園に入園[6]する。1942年4月に立川国民学校へ入学[6]する。1945年に長兄でのち彫刻家になる小澤克己からアコーディオンピアノの手ほどきを受ける。才能を感じた一家は、征爾に本格的にピアノを学ばせようと決意し、横浜市白楽の親類から安価で譲られたピアノをリアカーに縛りつけ、父と長兄の克己と次兄の俊夫が3日かけて立川市の自宅まで運搬した。

1947年に父が友人とミシン会社を始め、神奈川県足柄上郡金田村へ転居[6]する。1948年4月に成城学園中学校へ入学[7]し、小田急小田原線新松田から成城学園前まで片道2時間かけて通学した[7][8]。中学ではラグビー部に所属して3番プロップで活動しつつ、豊増昇からピアノを習う[7]。当時はピアニスト志望だったが、ラグビーの雨の試合でスクラム時に右手人差し指を骨折してピアノを断念[9]する。1950年秋に東京都世田谷区[注 1]代田へ転居[11]し、以後1951年から1952年は東京都世田谷区経堂[12]、1952年から1955年は東京都渋谷区笹塚[12]、1955年から1959年は神奈川県川崎市幸区戸手町[12]、それぞれで育つ[11]
1950年代

1951年に成城学園高校へ進学して齋藤秀雄の指揮教室に入門し、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として1952年に入学[11]する。同門に秋山和慶山本直純羽仁協子、久山恵子がいる[13]。癇癪持ちの齋藤から指揮棒で叩かれたり楽譜を投げつけられたりするなど体罰を日常的に受け、ストレスのあまり小澤は自宅の本箱のガラス扉を拳で殴りつけ、大怪我をした[14]。1955年に齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学音楽学部へ進学して1957年夏に卒業[15]する。夏期の卒業は、肺炎を患い卒業試験を受験できず[注 2]、のちに追試を受けて卒業が認められた事からであるが、療養期間中は仲間がどんどん仕事をしたりマスメディアに出演したりするのを見て焦りと嫉妬に苦しんだ[17]。このとき父から「嫉妬は人間の一番の敵だ」と言われて嫉妬心を殺す努力をしたことが後になって大変役立った、と語る[17]

短大卒業後、1957年頃から齋藤の紹介で群馬交響楽団で指揮棒を振り始めて北海道演奏旅行で指揮者を担当[18]する。1957年12月に日本フィルハーモニー交響楽団第5回定期演奏会のラヴェル『子供と魔法』で、渡邉暁雄の下で副指揮者を務める[18]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:226 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef