小湊町
廃止日1955年2月11日
廃止理由新設合併
小湊町、天津町 → 天津小湊町
現在の自治体鴨川市
廃止時点のデータ
国 日本
地方関東地方
都道府県千葉県
郡安房郡
面積15.81km2.
総人口4,237人
(1950年、国勢調査)
隣接自治体安房郡天津町
夷隅郡大多喜町、興津町、上野村
小湊町役場
所在地千葉県安房郡小湊町大字内浦
外部リンクなし
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小湊町(こみなとまち)は、かつて千葉県安房郡に存在した町。現在の鴨川市東部に位置する。
1889年の町村制施行に際して長狭郡湊村(みなとむら)として発足。1928年の町制施行とともに小湊町に改称した。昭和の大合併により天津小湊町の一部となり廃止された。
本項では、前史として中世以降の小湊とその周辺についても扱う。小湊は日蓮の出生地として知られ、誕生寺門前町として発展した[1][2]。また、内浦湾を抱えることから江戸時代には廻船の寄港地として栄えた[3]。 安房国の東端、現在の鴨川市域の東部に位置する。南に太平洋に面しており、内浦湾が湾入する。町域は房総丘陵に位置しており、山がちな地形である。内浦湾一帯は鯛の浦として知られるタイの群生地である。 現在の鴨川市域を、鴨川市成立時およびその後の合併時の町村によって4地区に区分する場合、「天津小湊地区」の一部に位置付けられており、その東部にあたる。鴨川市域を町村制施行当時の町村(旧町村)によって12地区に区分する場合は「小湊地区」とされ[4]、現在の大字では小湊(こみなと)・内浦(うちうら)が含まれる[4][注釈 1]。 1926年(大正15年)時点の湊村は、西に天津町、東北に夷隅郡の老川村・上野村・清海村(のちの興津町)と接していた[6]。なお、北東の山地を岩高山脈、西の山脈を松ヶ鼻山脈と称した[6]。当時、町は内浦・小湊の2つの大字に分けていた[6]。 小湊という地名が史料に現れるのは鎌倉時代以降で、日蓮とのかかわりのなかで見いだされる[3]。内浦という地名は、「誕生寺旧記」によればもともと岡村・市川村・小湊村の総称として使われていたという[6]。 貞応元年(1222年)、日蓮は「長狭郡東条郷片海[注釈 2]」に生まれた。現在の小湊浦の大弁天島・小弁天島の辺りとされている[3])[注釈 3]。日蓮が文永12年(1275年)に新尼御前に出した礼状には 「かたうみ(片海)、いちかわ(市川)、こみなと(小湊)」と故郷の地名が列挙されている[3]。 建治2年(1276年)、日蓮の弟子の日家によって日蓮の生家跡に誕生寺が建立された。明応7年(1498年)の明応地震では、地震と津波によって被災した[11]。この際、誕生寺が建てられていた日蓮の生誕地は海没して磯となり(「蓮華潭」(れんげがふち)と呼ばれるようになった)[9]、市川村は大半が海になったとされる[6][12]。このため、誕生寺は妙の浦(鯛の浦)に移転した[11]。 誕生寺は領主の保護を受け、江戸時代初頭には館山藩里見氏のもとで70石の寺領(内訳、小湊村53石、市川村14石、内浦村3石)を与えられていた[3]。現在の大字小湊の全域と内浦の一部にあたる[3]。慶長19年(1614年)の館山藩改易後も寺領70石は幕府によって認められた。 江戸時代初期に東廻り航路が整備されると、小湊浦(内浦湾)に番所が設けられ、浦役人が派遣されて、廻船の援助と監視にあたった[3](港の歴史については小湊漁港参照)。港は、難所とされた野島崎沖を越えるための良風を待つ避難港として栄えた[3]。また、東北諸藩も廻船を扱う役所や浦役人を置いた[3]。
目次
1 地理
2 歴史
2.1 前近代
2.2 近代
2.3 町域の変遷
3 人口・世帯
3.1 人口
3.2 世帯
4 経済
5 交通
5.1 鉄道
5.2 道路
6 名所・旧跡・祭事
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
9 関連項目
10 外部リンク
地理
歴史
前近代 歌川広重『六十余州名所図会 安房 小湊 内浦』。天津側の峠から望む内浦湾。大きな屋根を持つ誕生寺も描かれている。広重は嘉永5年(1852年)春に房総を旅行しており、この作品はその際の実景写生をもとに描かれたと考えられている[7]。