日本の政治家小渕 恵三おぶち けいぞう
内閣広報室より公表された肖像
生年月日1937年6月25日
出生地 日本 群馬県吾妻郡中之条町
没年月日 (2000-05-14) 2000年5月14日(62歳没)
死没地 日本 東京都文京区(順天堂大学医学部附属順天堂医院)
出身校早稲田大学第一文学部卒業
早稲田大学大学院政治学研究科修了
所属政党自由民主党(小渕派)
称号正二位
大勲位菊花大綬章
政治学修士(早稲田大学)
群馬県名誉県民
中之条町名誉町民
配偶者小渕千鶴子(妻)
子女小渕暁子(長女)
小渕優子(次女)
親族初代小渕光平(父)
二代目小渕光平(兄)
サイン
第84代 内閣総理大臣
内閣小渕内閣
小渕第1次改造内閣
小渕第2次改造内閣
在任期間1998年7月30日 - 2000年4月5日
天皇上皇(明仁)
第121代 外務大臣
内閣第2次橋本改造内閣
在任期間1997年9月11日 - 1998年7月30日
第49代 内閣官房長官
内閣竹下内閣
竹下改造内閣
在任期間1987年11月6日 - 1989年6月3日
第27代 総理府総務長官
第10代 沖縄開発庁長官
内閣第2次大平内閣
在任期間1979年11月9日 - 1980年7月17日
衆議院議員
選挙区(旧群馬3区→)
群馬5区
当選回数12回
在任期間1963年11月21日 - 2000年5月14日
その他の職歴
第18代 自由民主党総裁
(1998年7月24日 - 2000年4月5日)
自由民主党副総裁
(総裁:河野洋平)
(1994年7月 - 1995年10月)
第31代 自由民主党幹事長
(総裁:海部俊樹)
(1991年4月 - 1991年10月)
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小渕 恵三(おぶち けいぞう、1937年〈昭和12年〉6月25日 - 2000年〈平成12年〉5月14日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。
衆議院議員(12期)、総理府総務長官(第29代)、沖縄開発庁長官(第10代)、内閣官房長官(第49代)、外務大臣(第121代)、内閣総理大臣(第84代)、自由民主党幹事長、自由民主党副総裁、自由民主党総裁(第18代)、自由民主党群馬県連会長などを歴任した。 総理府総務長官、沖縄開発庁長官、内閣官房長官、自由民主党幹事長、外務大臣などを歴任。竹下登の側近として地歩を築き、敵を作らない性格から「人柄の小渕」の異名をとった。1998年に自由民主党総裁、総理大臣に就任した。自由党、公明党と連立政権(自自連立、自自公連立)を樹立し、巨大与党をバックに内外政にわたり多くの懸案を処理したが、2000年に病に倒れ、そのまま逝去した。 1937年(昭和12年)、群馬県吾妻郡中之条町に製糸業を営む小渕光平(衆議院議員・群馬県トラック協会会長)、小渕ちよ(光山社役員)夫妻の次男として生まれる。戦時中に北軽井沢に疎開していた学習院大学の教授と懇意になり、編入を勧められた父の意向により中之条町立中之条中学校1年の時に、学習院中等科に編入。以後は東京都北区王子に移住。 学習院に編入したものの、周りは名家の子息ばかりだったことから、地方出身の小渕にとっては決して居心地の良い環境ではなかったらしく、クラスメートからはいじめの対象となり、「群馬」という渾名を付けられていたという。 このことから、中等科卒業後は外部の高校を目指すことを決め、東京都立北高等学校(現・東京都立飛鳥高等学校)に進学。同校卒業後、二浪を経て早稲田大学第一文学部英文学科に進学。 父・光平が衆議院議員在職中に脳梗塞で亡くなると、政治家になるためのスキル獲得のため、サークル活動に積極的に取り組んだ。雄弁会、富木流合気道(日本合気道協会)の合気道部 光平の死後、1960年(昭和35年)に第29回衆議院議員総選挙が行われた。当時23歳で、まだ被選挙権が無かったため、地元では元参議院議員で群馬県知事、長野県知事を歴任した伊能芳雄らを立てたが落選。
来歴・人物
生涯
出生 - 早稲田大学時代4歳のころ、自宅庭で、3歳年上の姉・多喜子と
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