小渕内閣_(第2次改造)
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小渕第2次改造内閣
1999年10月5日
内閣総理大臣第84代 小渕恵三
成立年月日1999年(平成11年)10月5日
終了年月日2000年(平成12年)4月5日
与党・支持基盤自由民主党自由党保守党公明党
内閣閣僚名簿(首相官邸)
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小渕第2次改造内閣(おぶちだいにじかいぞうないかく)は、衆議院議員小渕恵三が第84代内閣総理大臣に任命され、1999年(平成11年)10月5日から2000年(平成12年)4月5日まで続いた日本の内閣。自自連立政権にさらに公明党が加わったことを契機に、内閣総理大臣の小渕恵三が小渕第1次改造内閣内閣改造して誕生させた内閣である。

2000年(平成12年)4月1日までは自由民主党自由党、および公明党との自自公連立政権であった。2000年(平成12年)4月1日以後は自由民主党、自由党から分裂して結成された保守党、および公明党との自公保連立政権となった。

もともとは、1999年(平成11年)10月1日に組閣される予定であったが、前日に発生した東海村JCO臨界事故への対応のため4日間延期され、この日に発足することとなった。
概要
人事

小渕恵三首相は、1999年自由民主党総裁選挙で無投票再選にこだわるが、加藤紘一山崎拓に立候補されてしまう。

その後に続く内閣改造・党三役人事では、総務会長加藤派が推挙した小里貞利を拒否、派内で加藤と距離を置き、総裁選辞退を訴えていた政調会長池田行彦を一本釣りし、横滑り起用[1]。旧宮沢派で加藤とたもとを分かった元総裁で早稲田出身の河野洋平外務大臣に起用した。また山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、山崎の総裁選出馬に反対した早稲田大学雄弁会の先輩で、前総務会長の深谷隆司通商産業大臣に起用した[1]。これは総裁選後の報復人事と囁かれた。

一方、翌年4月に介護保険法が導入されることをにらみ、「(担当閣僚である厚生大臣は)実力者でなければ職務に耐えられない」と考えた小渕は、厚生族で自身の盟友でもある、前首相の橋本龍太郎に入閣を要請したが、橋本は「前年の参院選敗北の責任は自分にある」として入閣を断わり、最終的に、橋本が推薦した丹羽雄哉を厚生大臣に起用した。この丹羽は加藤派であるが、加藤を通さない一本釣りであった。

谷垣禎一は大蔵大臣の宮澤喜一からは「小渕さんと話をしている。君に金融再生委員会委員長になってもらう」と言われ、加藤からは「なるな」と言われた。宮澤は当時、首相経験者ながら蔵相に再登板していたが、一方で宮澤から禅譲されて派閥の会長となっていた加藤は、内閣改造の直前に行われた党総裁選で、小渕との間にしこりを残していたためである。結局、谷垣は就任を辞退し[2]越智通雄が就任したが2000年2月19日栃木県金融機関関係者への講演で、「検査の仕方がきついとかあったら、どんどん直接おっしゃってください。最大限考慮しますから」と発言し、「手心発言」として論議を呼び[3]2月25日に越智が辞任、後任は谷垣が就任した[4]

連立を組む自由党から二階俊博が運輸大臣、北海道開発庁長官公明党から続訓弘が総務庁長官に初入閣を果たした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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