小津安二郎
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おづ やすじろう
小津 安二郎
1951年
本名同じ
別名義ジェームス・槇[注 1]
生年月日 (1903-12-12) 1903年12月12日
没年月日 (1963-12-12) 1963年12月12日(60歳没)
出生地 日本東京府東京市深川区(現在の東京都江東区深川
死没地 日本東京都文京区湯島
身長約170 cm[2][3]
職業映画監督脚本家
ジャンル映画
活動期間1927年 - 1963年
主な作品
東京の合唱』(1931年)
大人の見る繪本 生れてはみたけれど』(1932年)
戸田家の兄妹』(1941年)
晩春』(1949年)
麦秋』(1951年)
東京物語』(1953年)
秋刀魚の味』(1962年)

 受賞
ブルーリボン賞


監督賞

1951年麦秋

その他の賞
毎日映画コンクール
監督賞
1949年晩春
脚本賞
1949年晩春
特別賞
1963年英国映画協会
サザーランド杯
1953年東京物語紫綬褒章
1958年

備考
日本映画監督協会理事長(1955年 - 1963年
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小津 安二郎(おづ やすじろう、1903年明治36年〉12月12日 - 1963年昭和38年〉12月12日)は、日本映画監督脚本家日本映画を代表する監督のひとりであり、サイレント映画時代から戦後までの約35年にわたるキャリアの中で、原節子主演の『晩春』(1949年)、『麦秋』(1951年)、『東京物語』(1953年)など54本の作品を監督した。ロー・ポジションによる撮影や厳密な構図などが特徴的な「小津調」と呼ばれる独特の映像世界で、親子関係や家族の解体をテーマとする作品を撮り続けたことで知られ、黒澤明溝口健二と並んで国際的に高く評価されている。1962年には映画人初の日本芸術院会員に選出された。義弟はキノエネ醤油14代社長山下平兵衛[4]
生涯
生い立ち

1903年12月12日東京市深川区亀住町4番地(現在の東京都江東区深川一丁目)に、父・寅之助と母・あさゑの5人兄妹の次男として生まれた[5][6][7]。兄は2歳上の新一、妹は4歳下の登貴と8歳下の登久、弟は15歳下の信三である[6]。生家の小津.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}新七(しんしち)家は、伊勢松阪出身の伊勢商人である小津与右衛門(よえもん)家の分家にあたる[8]。伊勢商人は江戸に店を出して成功を収めたが、小津与右衛門家も日本橋で海産物肥料問屋の「湯浅屋(ゆあさや)」を営んでいた[8][9][注 2]。小津新七家はその支配人を代々務めており、五代目小津新七の子である寅之助も18歳で支配人に就いた[8][11]。あさゑはの名家の生まれで、のちに伊勢商人の中條家の養女となった[6][8]。両親は典型的な厳父慈母で、小津は優しくて思いやりのある母を終生まで敬愛した[9]。小津は3歳頃に脳膜炎にかかり、数日間高熱で意識不明の状態となったが、母が「私の命にかえても癒してみせます」と必死に看病したことで一命をとりとめた[14]

1909年、小津は深川区立明治小学校附属幼稚園に入園した。当時は子供を幼稚園に入れる家庭は珍しく、小津はとても裕福で教育熱心な家庭で育ったことがうかがえる[15]。翌1910年には深川区立明治尋常小学校(現在の江東区立明治小学校)に入学した[5]1913年3月、子供を田舎で教育した方がよいという父の教育方針と、当時住民に被害を及ぼしていた深川のセメント粉塵公害による環境悪化のため、一家は小津家の郷里である三重県飯南郡神戸村(現在の松阪市垣鼻785番地に移住した[5][16]。父は湯浅屋支配人の仕事があるため、東京と松阪を往復する生活をした[16]。同年4月、小津は松阪町立第二尋常小学校(現在の松阪市立第二小学校)4年生に転入した[17]。5・6年時の担任によると、当時の小津は円満実直で成績が良く、暇があるとチャンバラごっこをしていたという[18]。やがて小津は自宅近くの映画館「神楽座」で尾上松之助主演の作品を見たのがきっかけで、映画に病みつきとなった[5]

1916年、尋常小学校を卒業した小津は、三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)に入学し、寄宿舎に入った[5]。小津はますます映画に熱を上げ、家族にピクニックに行くと偽って名古屋まで映画を見に行ったこともあった[19]。当時は連続活劇の女優パール・ホワイトのファンで、レックス・イングラムやペンリン・スタンロウズ(英語版)の監督作品を好むなど、アメリカ映画一辺倒だった[19][20]。とくに小津に感銘を与えたのがトーマス・H・インス監督の『シヴィリゼーション』(1917年)で、この作品で映画監督の存在を初めて認識し、監督を志すきっかけを作った[20][21]1920年、学校では男子生徒が下級生の美少年に手紙を送ったという「稚児事件[注 3]」が発生し、小津もこれに関与したとして停学処分を受けた[23]。さらに小津は舎監に睨まれていたため、停学と同時に寄宿舎を追放され、自宅から汽車通学することになった[23]。小津は追放処分を決めた舎監を終生まで嫌悪し、戦後の同窓会でも彼と同席することを拒否した[24][25]。しかし、自宅通学に変わったおかげで外出が自由になり、映画見物には好都合となった[23]。この頃には校則を破ることが何度もあり、操行の成績は最低の評価しかもらえなくなったため、学友たちから卒業できないだろうと思われていた[26][27]

1921年3月、小津は何とか中学校を卒業することができ、両親の命令で兄の通う神戸高等商業学校を受験したが、合格する気はあまりなく、神戸大阪で映画見物を楽しんだ[28][29]名古屋高等商業学校も受験したが、どちらとも不合格となり、浪人生活に突入した[5]。それでも映画に没頭し、7月には知人らと映画研究会「エジプトクラブ」を設立し、憧れのパール・ホワイトなどのハリウッド俳優の住所を調べて手紙を送ったり、映画のプログラムを蒐集したりした[30]。翌1922年に再び受験の時期が来ると、三重県師範学校を受験したが不合格となり、飯南郡宮前村(現在の松阪市飯高町)の宮前尋常高等小学校代用教員として赴任した[31]。宮前村は松阪から約30キロの山奥にあり、小津は学校のすぐ近くに下宿したが、休みの日は映画を見に松阪へ帰っていたという[32][33]。小津は5年生男子48人の組を受け持ち、児童に当時では珍しいローマ字を教えたり、教室で活劇の話をして喜ばせたりしていた[32]。また、下宿で児童たちにマンドリンを弾き聞かせたり、下駄のまま児童を連れて標高1000メートル以上の局ヶ岳を登頂したりしたこともあった[34]
映画界入り

1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、深川区和倉(わくら)町に引っ越した[5]。3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた[35]。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した[35][36]。しかし、母の異母弟の中條幸吉(ちゅうじょうこうきち)が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した[35]。小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった[37]。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった[38]。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた[39][40]。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した[40]


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