日本の政治家小泉 純也こいずみ じゅんや
小泉純也と、後に首相となる息子純一郎
生年月日1904年1月24日
出生地 日本 鹿児島県川辺郡東加世田村
小泉 純也(こいずみ じゅんや[注釈 1]、1904年〈明治37年〉1月24日 - 1969年〈昭和44年〉8月10日)は、日本の政治家。位階は正三位。
衆議院議員、防衛庁長官を務めた。旧姓鮫島(さめじま)。ニックネームは安保男(あんぽおとこ)。
衆議院副議長、逓信大臣などを歴任した小泉又次郎の女婿。首相を務めた小泉純一郎の父。根津財閥の大番頭だった鮫島宗一郎は従兄弟[1]。横須賀市議会議長をつとめた井料克己は甥。 鹿児島実業の夜学に通いながら、市内にある呉服店山形屋(現百貨店)に勤務した[2]。 学校を出ると朝鮮銀行に職を求め、お茶汲みをした[3]。また、職工として大阪や神奈川・鶴見の旭硝子(現AGC)工場で働いた[4]。 代議士岩切重雄の書生となって、日本大学法学部政治学科の夜学に通わせてもらい、1930年に卒業した。岩切の紹介で立憲民政党の職員となる。そして、同じ鹿児島出身の議員床次竹二郎の指導を得るようになった。 小泉又次郎が幹事長をつとめる立憲民政党の事務職員だった頃、その娘である芳江と知り合った[5]。又次郎のところに出入するうち2人は恋におちた。しかし、又次郎は大反対だった。2人は駆け落ちして東京・青山の同潤会アパートで同棲をはじめた。又次郎は『帰って来い』と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている[6]。小泉と芳江の結婚について、又次郎の養女だった近藤壽子 結局、又次郎のほうが折れて純也が“代議士になれたら一緒になることを許す”として認めることになった[8]。 1937年、小泉は故郷の鹿児島県から民政党公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選した。1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選した。そのため戦後、公職追放となる。追放解除後は、旧民政党系のうち岸信介に近い政治家によって結成された新日本政治経済調査会 その後鳩山一郎率いる日本民主党の結成に参加し、1955年の保守合同によって自由民主党が誕生すると、旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属した。自民党では党総務、副幹事長などを歴任し、大麻の死後は岸派→藤山愛一郎派(愛正会)に所属した。 1955年、第2次鳩山内閣の法務政務次官、1964年、第3次池田内閣改造内閣、および第1次佐藤内閣の防衛庁長官を歴任した。
来歴・人物
生い立ち、加世田市、現南さつま市加世田小湊)小松原地区の漁業・鮫島家に生まれた。父親の鮫島彌三左衛門(やざえもん)は事業に失敗し、地元の鰹節工場に雇われていたが、純也が11歳の時に亡くなった[2]。母親が三男六女を育てたが、家が貧しく純也のきょうだいのうち3人が亡くなっている[2]。当時の加世田地区は貧しい家庭が多く、ほとんどの子弟が出稼ぎなどに出ている[2]。純也も小学校を卒業すると、鹿児島市内に働きに出た[2]。
学生時代
結婚
政治家として