日本の政治家小泉 純一郎こいずみ じゅんいちろう
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1942-01-08) 1942年1月8日(82歳)
出生地 日本 神奈川県横須賀市
出身校慶應義塾大学経済学部卒業
前職衆議院議員福田赳夫秘書
所属政党自由民主党(森派→無派閥)
称号経済学士(慶應義塾大学、1967年)
配偶者小泉佳代子 (1978年 - 1982年)
子女小泉孝太郎(長男)
小泉進次郎(次男)
宮本佳長(三男)
親族小泉又次郎(祖父)
小泉純也(父)
井料克己(従兄)
第87-89代 内閣総理大臣
内閣第1次小泉内閣
第1次小泉第1次改造内閣
第1次小泉第2次改造内閣
第2次小泉内閣
第2次小泉改造内閣
第3次小泉内閣
第3次小泉改造内閣
在任期間2001年4月26日 - 2006年9月26日
天皇上皇(明仁)
第37代 農林水産大臣
内閣第2次小泉改造内閣
在任期間2005年8月8日 - 2005年8月11日(総理兼任)
第127代 外務大臣
内閣第1次小泉内閣
在任期間2002年1月30日 - 2002年2月1日(総理兼任)
第68-69・80代 厚生大臣
内閣竹下改造内閣
宇野内閣第2次橋本内閣
第2次橋本改造内閣
在任期間1988年12月27日 - 1989年8月10日1996年11月7日 - 1998年7月30日
第55代 郵政大臣
内閣宮澤改造内閣
在任期間1992年12月12日 - 1993年7月20日
その他の職歴
衆議院議員
(旧神奈川2区→)
神奈川11区
当選回数 12回
(1972年12月10日 - 2009年7月21日)
第20代 自由民主党総裁
(2001年4月24日 - 2006年9月20日)
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小泉 純一郎(こいずみ じゅんいちろう、1942年〈昭和17年〉1月8日 - )は、日本の政治家。
内閣総理大臣(第87・88・89代)、農林水産大臣(第37代)、外務大臣(第127代)、厚生大臣(第69・70・81代)、年金問題担当大臣(竹下改造内閣)、郵政大臣(第55代)、大蔵政務次官(第2次大平内閣)、衆議院大蔵委員長、衆議院議員(12期)、自由民主党総裁(第20代)を歴任した。 福田赳夫の秘書を経て、1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来12期連続当選。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓や加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。 竹下政権にて厚生大臣として初入閣、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年(平成13年)4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては安倍晋三、佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第4位。平成においては安倍晋三に次ぐ第2位の長期政権である。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男の進次郎を後継に指名し政界を引退した。引退後は奥田碩、田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めた。公益財団法人日本尊厳死協会の顧問を務めている。 1942年(昭和17年)1月8日、神奈川県横須賀市に、父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若いころに全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった[注釈 1]。 神奈川県立横須賀高等学校卒業後、東京大学入学を目指し2浪。その後、慶應義塾大学経済学部に入学し、同大学を卒業[注釈 2]。英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (U.C.L.) に留学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死し帰国。 同年12月、亡父の跡を継ぎ、弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に神奈川2区から自由民主党公認で立候補し、10万3000票余りを獲得するが、4000票差で落選した。ジャーナリストの池上彰によれば、特定郵便局長からの票がライバル候補に流れたことで落選に至ったという[3]。 福田赳夫の秘書を務め、後に総理となる福田から政治家としての薫陶を受けた。社会人生活の第一歩を浪人でスタートした小泉は、毎朝4時に起床した[4]。横須賀駅5時半発の電車に乗って、2時間かけて世田谷区にある福田赳夫邸へと通った[4]。福田のもとには初当選したばかりの塩川正十郎がいた[4]。当時のことを塩川正十郎は『週刊文春』の阿川佐和子との対談でこう語っている「そうそう。彼は早起きで、福田さんの家の玄関で靴揃(そろ)えておったね。下足番だったの」「で代議士が帰るときモータープールで“何々先生お帰り?お車ぁ?”て運転手を呼んでたの(笑)。だから、僕は彼のホームページに“まさか総理大臣になるとは思わなかった”って書いたんです。大変な苦労をしてますよ。」、「そのとき、福田さんが“こいつは意地の強いやっちゃ。なかなかしっかりしとる。だから、大物になったら、とんでもない大物になるけど、はぐれたら処置ない奴ぜぇ”と言うたことがあるの」[5]。福田邸で秘書の仕事は午前中で終わり、午後からは地元横須賀で自身の政治活動を行っていた。 1972年(昭和47年)12月、第33回衆議院議員総選挙で自民党公認として立候補し、12万2000票余りを獲得し初当選。清和会(福田派)に属し、後に首相秘書官となる飯島勲が秘書となった。また、同期の山崎拓、加藤紘一と懇意になり、YKKと呼ばれることとなる。 1978年(昭和53年)にエスエス製薬の元会長泰道照山の孫・宮本佳代子と結婚。この結婚に父親的な存在だった泰道照山は反対だったという。泰道照山の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている[6]。 3人の子供をもうけたが、1982年に離婚。離婚時に妻は三男を懐妊中であった。関係者の話によれば、「小泉の面倒は姉で秘書をしている信子がみており、系図をみてもわかるように周囲は姉弟の身内で固めている。離婚の理由は本人がおかしくなり、よほど結婚にはこりたようだ」という[7]。 1979年(昭和54年)、第2次大平内閣で大蔵政務次官に就任。 ポストに執着せずもっぱら政策の習熟に徹していたが、子分を作らない一匹狼的な行動をとり、言いたいことを直言し、与野党政治家の既得権益を害する郵政民営化論を主張することもあって永田町では「変人」と評されるようになる。 1988年(昭和63年)、竹下改造内閣で厚生大臣として初入閣。 1989年(平成元年)にリクルート事件で竹下政権が倒れ、続く宇野政権も参院選で惨敗し、わずか2か月で退陣した。政治不信が高まり、政治改革の柱として「小選挙区制の導入」が叫ばれた際、小泉はこれに強く反対し、推進派の羽田孜と対立した[注釈 3]。 1991年(平成3年)、自民党総裁選で再選を目指し、最大派閥の経世会(竹下派)の支持を受けた海部俊樹(首相)に対抗し、盟友の山崎拓(渡辺派)、加藤紘一(宮澤派)と組んで、「海部続投阻止」「経世会支配打倒」を打ち上げた。所属する三塚派のほか、渡辺派、宮沢派の反主流派が結束したため、海部内閣は機能不全に陥り、海部は総裁選不出馬に追い込まれた。 後任の総理総裁に宮澤喜一が就任すると、小泉は1992年(平成4年)の宮澤改造内閣で郵政大臣に就任する。就任会見で、かねてからの持論の郵政民営化論に基づき、国は民間では採算の採れないことだけをすべきとして、老人マル優限度額引き上げなど従来の郵貯事業拡張政策の見直しを唱えたが、この老人マル優限度額引き上げ見直しは反対派議員(郵政族)などの反発で失敗に終わった。
概説
経歴
生い立ち小泉家。左から純一郎、又次郎(祖父)、正也(弟)、純也(父)。
学生時代
福田赳夫の秘書として
初当選
結婚と離婚
衆議院議員
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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