小泉喜美子
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誕生 (1934-02-02)
1934年2月2日
東京府京橋区築地(現・東京都中央区築地)
死没 (1985-11-07) 1985年11月7日(51歳没)
東京都新宿区
職業小説家翻訳家
国籍 日本
最終学歴東京都立三田高等学校
活動期間1959年 - 1985年
ジャンルミステリー翻訳
デビュー作『弁護側の証人』
配偶者生島治郎(1959年 - 1972年)
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小泉 喜美子(こいずみ きみこ、1934年2月2日 - 1985年11月7日)は、日本推理作家翻訳家。旧姓・杉山。
経歴

東京都築地生まれ。

東京都立三田高等学校卒業後、英語力を活かしてジャパンタイムズに勤務。田村隆一の下訳を手がけ、早川書房に出入りし、当時同社の編集者(『ミステリマガジン』編集部)だった1歳上の小泉太郎(生島治郎)と知り合い、交際を経て25歳で結婚した。同年(1959年)には「我が盲目の君」を第1回EQMM短篇コンテストに応募し、準佳作に入選する。

職場で大量の原稿を読み、かつ帰宅後は自らの原稿を書かなければならなかった生島から「家の中で原稿を書かれると自分(生島)の神経が参ってしまう」という理由により原稿の執筆を禁じられていたが、約束を破って『弁護側の証人』を書き上げ、『オール讀物』ミステリ新人賞に応募したところ、入選は逸したものの選考委員の一人高木彬光の激賞により文藝春秋から単行本となった。

1972年に生島と離婚し、翌年に『ダイナマイト円舞曲』で再デビューしアーウィン・ショーなど重要な文学作品の翻訳のほか、ミステリなどで活躍した。その後も生島とは良き友人だったが、生島の再婚相手である韓国女性に関して差別発言があったために絶交される。

生島と別れた後に内藤陳と結ばれたが、やはり破局を迎えた。

1985年、酒に酔って新宿の酒場の階段から足を踏み外して転落し、脳挫傷を負って意識が戻らぬまま外傷性硬膜下血腫で他界した。享年51。
著作リスト
単著
小説

『弁護側の証人』(
文藝春秋新社、ポケット文春) 1963年、のち集英社文庫 1978年4月、のち出版芸術社、ミステリ名作館 1993年11月、のち集英社文庫 2009年4月
出版芸術社版には短編「深い水」を併録。

『ダイナマイト円舞曲』(光文社カッパ・ノベルス) 1973年、のち集英社文庫 1980年12月

『月下の蘭』(双葉社 )1979年10月、のち徳間文庫 1985年7月

『またたかない星』(集英社文庫、コバルトシリーズ) 1979年10月

『痛みかたみ妬み』(双葉社) 1980年6月

『殺人はお好き?』(徳間文庫) 1981年1月、のち宝島社文庫 2017年2月

『幻想マーマレード』(太陽企画出版、サンノベルズ) 1981年5月

『血の季節』(早川書房) 1982年2月、のち文春文庫 1986年5月、のち宝島社文庫 2016年8月

『女は帯も謎もとく』(徳間書店トクマ・ノベルズ) 1982年2月、のち光文社文庫 2018年6月

『殺人はちょっと面倒』(中央公論社C★NOVELS) 1982年11月

『暗いクラブで逢おう』(徳間文庫) 1984年5月

『殺人は女の仕事』(青樹社、ビッグブックス) 1984年8月、のち光文社文庫 2019年1月

『ミステリー作家の休日』(青樹社、ビッグブックス) 1985年3月、のち光文社文庫 2019年9月

『男は夢の中で死ね』(光文社文庫)1985年5月

『死だけが私の贈り物』(徳間書店) 1985年12月、のち徳間文庫<トクマの特選!> 2021年11月
徳間文庫版には原型となった同題の中編「死だけが私の贈り物」を併録。


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