小泉チルドレン
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83会(はちさんかい)とは、2005年9月の第44回衆議院議員総選挙で初当選した自由民主党の新人議員によって構成されていた会である。名称は、この選挙で当選した新人議員(小泉チルドレン)の数にちなんでいる。
経緯

2005年9月30日の設立当初は任意団体だったが、2006年3月17日に政治団体として設立された[1]。解散時点での代表は北村茂男、会計責任者は丹羽秀樹。設立時の代表は土屋正忠[1]、歴代会計責任者は広津素子[1]土井真樹長島忠美[2]

2005年9月総選挙で、期待されていなかったにもかかわらず、小泉純一郎首相の人気や、各候補者が自民党広報本部の意見を参考にしたパフォーマンスで、全く想定外の当選を果たした若手議員が多いとされる。そのため、次回の選挙で当選できるのは3分の1程度、と酷評する声が党内にも存在した。

一方で、それまで中央政界と無縁だったり、地縁血縁をあまり持たない者たちが、全国公募に応募して急遽出馬し当選を果たしたことから、既存の中央政界の常識に捉われることなく政治活動を行うことが期待された。

小泉自民党総裁武部勤自民党幹事長は、彼らに対して、しばらく既存の派閥に属さないようにと指示したため、事実上の派閥として小泉派が旗揚げされたのではないか、と報道機関に注目された。しかし、2006年4月に会について紹介する書籍『UBUDAS』(メディアファクトリー)を出版した時点で、既に半数近くの議員が派閥に所属しており、選挙直後の結束は無く、『UBUDAS』は「83会の卒業アルバム」とまでいわれた。
活動
党改革の象徴として抜擢

小泉執行部は、当選直後から彼らを抜擢した。たとえば、総選挙直後の内閣改造に際して、片山さつき経済産業大臣政務官に起用したり、2005年11月の党大会において、杉村太蔵に「立党50年宣言」を読み上げさせたりした。また、猪口邦子第3次小泉改造内閣内閣府特命担当大臣少子化・男女共同参画)に起用した。

2006年4月の衆議院千葉7区補選では、武部幹事長の指揮の下、新人議員たちが党公認候補の応援に大量動員された。

また、小泉の退任を受けて2006年9月に就任した安倍晋三総裁も、重要ポストである党広報局長に片山を起用したり、多くの新人議員を副幹事長に就けたりするなど、新人抜擢の流れを引き継いだ。
風向きの変化・次期総選挙への処遇

安倍総裁誕生の後、郵政造反組復党問題が持ち上がった。郵政民営化を「大義」として当選した83会の新人議員の間では、復党に批判的な意見が多かった。

2006年11月7日、自民党本部で開かれた衆参1回生議員の研修会「日本夢づくり道場」で「塾長」としてあいさつした武部勤は「皆さんが戦った相手は抵抗勢力で改革の敵。復党問題が出ているが後戻りすることは絶対ない」と述べた。しかし武部に続いてあいさつした小泉純一郎は「政治家は常に使い捨てにされることを覚悟しないといけない。甘えちゃいけない。使い捨てが嫌なら国会議員にならない方がいい」と述べ、郵政民営化法案の造反議員の復党に反対する一部議員を牽制した。復党に反対するグループはこの翌日「復党問題を考える会」の発足を予定しており、「日本夢づくり道場」を前哨戦と位置づけていた。小泉の後ろ盾を期待していた議員のなかには、この発言に戸惑いの表情を見せた者もいた[3][4]

結局、2006年12月4日、自民党党紀委員会で平沼赳夫以外の造反議員11人の復党が全会一致で認められた。詳細は「郵政造反組復党問題」を参照

その後で造反組である藤井孝男の参院選推薦や衛藤晟一の復党が認められた(藤井は2007年参院選当選後に復党)。

2007年7月の第21回参議院議員通常選挙での自民党大敗を受け、8月に党幹事長に就任した麻生太郎は、83会議員を副幹事長などの党役職から退けた。

2007年9月10日の党代議士会では、中川泰宏川条志嘉が、党執行部や郵政造反組平沼赳夫の動きを「復党が自民党支持率降下の一因であるにもかかわらず、反省がない」と批判した。また、菅義偉選対総局長なども「次の衆院選には勝てる候補だけを公認する」と述べ、復党組と選挙区が重なる議員は選挙区変更も予想された。

また、9月には麻生の主導により平沼の復党が再燃したが、この動きを小泉改革の事実上の否定と受け取って反発する者も現れた。安倍が首相として内閣改造を行った際には、郵政造反復党組の森山裕今村雅弘副大臣に起用するなど、公然と要職へ復帰させるようになった。この時期、安倍は麻生と相談のうえで内閣改造を行ったとされ、このような麻生主導での1回生議員への待遇変更・郵政造反組の復権に関して、83会議員の不満が募った。

このような状況下で、9月12日に安倍首相が突如辞任を表明したことを受け、83会の一部議員は次期総裁に小泉純一郎前総裁の再登板を望む会を発足[注釈 1]させ、小泉の総裁選立候補の署名を集めるなどの活動を始めたが、小泉本人は「再登板は100%ない」と否定し、福田康夫支持を表明した。

また、総裁選の候補者である麻生太郎が、上記のように、1回生議員を冷遇したり、小泉改革の否定ともとれる行動をとっていたりしたため、83会議員の中に麻生へ不快感を示す者も出てきた。さらに、福田が平沼復党に慎重論を出し、小泉の福田支持と平沼復党問題の対応から、反麻生票として福田へ投票する議員が増えたと見られている。

しかし、1回生冷遇の流れは止まらず、党総裁・首相に就任した福田は、郵政国会で小泉を強く牽制し郵政民営化法案を棄権した古賀誠を党選挙対策本部長に任命した。また、片山は党広報局長を更迭され、郵政造反復党組の野田聖子が後任に起用された。

古賀は、郵政造反組であり野中広務の後継者である田中英夫の会合への出席、郵政造反無所属議員の平沼赳夫との接触を行っている。また、古賀も、菅と同様、「次の衆院選には勝てる候補だけを公認する」とし、支持基盤の弱い83会議員を優遇しない方針を打ち出している。

こうした執行部の姿勢に対して、83会議員を中心にした新会派「新しい風」を設立した武部は、「党が公認しないのなら、彼らを応援するために自分が党を出るしかない」と離党をほのめかす発言を行っている。

2008年1月16日森喜朗元首相が都内のホテルで講演を開き、「小泉さん(元首相)は『次(第45回衆院選)の保証など絶対誰にも言ってない』と言っていた」と、小泉元首相との会話を披露し、チルドレン達は「親」である小泉元首相から庇護を十分に受けられない現状が明らかとなった[5]

それぞれ北海道1区岐阜1区からの出馬の動きを見せていた杉村太蔵佐藤ゆかり両議員については、党本部や都道府県連が彼らを公認せず、それぞれ長谷川岳野田聖子を公認することで決定した。このように、1回生議員の一部は、無所属での出馬や選挙区変更を余儀なくされる厳しい立場に立たされた[6][7]
2009年衆院選における自民党敗北

2009年8月30日に投票が行われた第45回衆議院議員総選挙においては、自民党が歴史的な敗北という結果となった。解散前の所属議員83人のうち77人が立候補したが、小選挙区で4人、比例代表で6人、合計10人のみが当選した[8]
2010年参院選での鞍替え

2010年7月の第22回参議院議員通常選挙において、自民党から5人、他の政党から4人、計9人が立候補。自民党4人と他政党1人が当選した。比例区の自民党候補では高い知名度を持つ片山さつきと佐藤ゆかりがそれぞれ1位2位で当選した。
2012年衆院選における自民党大勝とチルドレンの復帰

2012年12月16日の第46回衆議院議員総選挙においては、自民党が294議席を獲得し、前回選挙で落選した所属議員34人のうち32人が復帰する結果[9][注釈 2]となった。


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