小沢昭一
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おざわ しょういち
小沢 昭一
キネマ旬報社『キネマ旬報』2月上旬号(1967)より
本名小澤 昭一
生年月日 (1929-04-06) 1929年4月6日
没年月日 (2012-12-10) 2012年12月10日(83歳没)
出生地 日本東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉
(現:東京都杉並区和泉
死没地 日本・東京都
職業俳優
俳人
エッセイスト
ジャンル映画
テレビドラマ
舞台
ラジオ番組
漫談
活動期間1954年 - 2012年
配偶者小沢英子
主な作品
映画
幕末太陽傳
にあんちゃん
豚と軍艦
エロ事師たちより 人類学入門
楢山節考』(1983年)
黒い雨』ラジオ番組
小沢昭一の小沢昭一的こころ』(1973年-2012年TBSラジオ)

 受賞
ブルーリボン賞
助演男優賞
1959年にあんちゃん
その他の賞
毎日映画コンクール
男優主演賞
1966年エロ事師たちより 人類学入門紀伊國屋演劇賞
個人賞
1979年
2000年

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小沢 昭一(おざわ しょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年(昭和4年)4月6日[1] - 2012年(平成24年)12月10日)は、日本俳優タレント俳人漫談師、エッセイスト芸能研究者放送大学客員教授日本新劇俳優協会会長、劇団「しゃぼん玉座」主宰、見世物学会顧問を務めた。俳号は小沢 変哲。
来歴・人物

東京府豊多摩郡和田堀町大字和泉(現:東京都杉並区和泉)生まれ[2]。父は現在の長野県長野市の出身で、新潟県高田市(現:上越市)で写真屋修行時代に結婚し東京に出てきた[2]。昭一2歳の頃、父親が写真館を始めたため日暮里へ引っ越し[2]、4歳のときに蒲田に移り住む。当時の蒲田は、松竹映画の撮影所があるモダンな街で、また寄席もあり、その猥雑な雰囲気が小沢の後の活動に影響を与えた。

戦争の匂いが身近に迫る中、旧制麻布中学に入学[3]し、同級に大西信行加藤武フランキー堺仲谷昇なだいなだ等多くの友人を得る。軍事教練や、学徒動員先でも天狗連として彼らと、しばしば落語を披露し合っていた。通学帰り、ネタを増やしに、大西、加藤らと、学生服姿で人形町末廣、神楽坂演芸場、銀座金春亭など禁演落語の時節真っ只中の寄席に入り浸り、そこで出会った演芸評論家・作家の正岡容の知遇を得て弟子になる。桂米朝、大西、加藤らとは正岡門下の兄弟弟子の関係である。さらに大西、加藤らと麻布中で演劇部を立ち上げた。その後、江田島海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。そこで見た一面の焼け野原・終戦体験が昭一青年に大きな影響を与えた。まだ豊かに残っていた大道芸に出た「透明人間」「蜘蛛娘」などの見世物小屋手品女相撲に熱中した経験を持つ[4]

麻布に復学後、早稲田大学第一文学部仏文科卒。早大在学中にはやはり、大西、加藤らと共に、日本で初めての学校での落語研究会を創設する(名称は「寄席文化研究会」としたかったが、大学に認めてもらえず「庶民文化研究会」とした。顧問は暉峻康隆(当時)助教授)。また、北村和夫加藤武今村昌平らとグループを結成して演劇活動に熱中した。

1949年(昭和24年)、大学在学中に俳優座付属俳優養成所の二期生となり、千田是也に師事する。卒業後、俳優座公演で初舞台を踏む。1960年(昭和35年)には演出家の早野寿郎と「劇団俳優小劇場」を結成。1966年(昭和41年)に新劇寄席『とら』で芸術祭奨励賞を受賞した(俳優小劇場はのち、1971年(昭和46年)に解散)。

以降も舞台ラジオ番組映画テレビ番組などで芸能活動を行い、1966年(昭和41年)のNHKラジオドラマ『ゆびぶえ』など優れた作品を残している。

映画俳優としては、早稲田の同窓である今村昌平の紹介で1954年(昭和29年)に映画デビュー。今村が日活に移籍したのをきっかけに自身も日活と専属契約をした。ここで、小沢の心酔することになる川島雄三と出会う。

川島の『愛のお荷物』、『洲崎パラダイス赤信号』、そして『幕末太陽傳』で、脇役ながらその存在感を示した。その後、今村の『エロ事師たちより 人類学入門』で主役を務め、1966年(昭和41年)の「キネマ旬報」主演俳優賞、「毎日映画コンクール」男優主演賞など多数の賞を獲得した。小沢は川島に傾倒しており、日本経済新聞に掲載された『焼け跡派のこころ』(2004年(平成16年)連載)では「川島監督に演技を開眼してもらった」と述べている。なお、プログラムピクチャーにも多数出演しているが、怪しい訛り言葉を話す中国人役などが多かった。個性派のバイプレイヤーとして、200本以上の映画に出演している。

また、1969年(昭和44年)、不惑の年に、それまでの新劇を基点とした活動に限界を感じ、またもともと、幼少期より落語など演芸・話芸・雑芸が好きであったこともあり、「芸能の原点」を求めて日本の伝統的な芸能に憧れを抱き、著書『私は河原乞食・考』を刊行。またこの年から、早稲田大学演劇科の大学院に特別入学して、郡司正勝教授のもとに5年間通い、芸能史の研究を行う。同1969年、東京やなぎ句会に参加。

その後も放浪芸の収集、発掘に深い関心を寄せ、記録、保存、著述、そして実践を行うようになる。1971年(昭和46年)には全国を廻って収集した音源を元に制作したレコード『日本の放浪芸』LP7枚組を発売し、1971年度の第13回日本レコード大賞企画賞を受賞。続編の『又・日本の放浪芸』は、1974年度の芸術選奨新人賞を受賞。以降も、次々と続編を制作する。


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