おざわ とくじ
小澤 得二
本名小澤 得壽 (おざわ とくじゅ)
生年月日 (1893-10-11) 1893年10月11日
没年月日 (1979-04-19) 1979年4月19日(85歳没)
出生地不明
職業映画監督、脚本家、編集技師
ジャンル新劇、劇映画(現代劇、サイレント映画・トーキー)、ドキュメンタリー映画
活動期間1913年 - 1950年代
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小澤 得二(おざわ とくじ、1893年10月11日 - 1979年4月19日)は、日本の映画監督、脚本家、編集技師、元俳優である[1][2][3][4][5][6][7]。新漢字表記小沢 得二[1][3][4][5][6]。本名小澤 得壽(おざわ とくじゅ)[1]。
人物・来歴に参加、5年間にわたって新劇俳優としてのキャリアを積む[1][2]。1920年(大正9年)、国際活映に入社し、佐藤紅緑の弟子であり日活向島撮影所出身という、新派系の演出家・脚本家の桝本清に師事する[1][2]。1923年(大正12年)2月15日に公開された『涙の親子
1928年(昭和3年)、独立して小澤映画聯盟を設立、女優の五月信子らとともに長谷川伸や佐藤紅緑の小説を原作とした映画を製作、監督したが、長続きはできなかった[1][4][5]。翌1929年(昭和4年)の解散後は、東京に移り、河合映画製作社に入社、同年10月11日に公開された『血の曲芸団』を第1作として、その後短期間に映画を量産する[1][4][5]。1931年(昭和6年)からしばらく、東京シネマ商会で数本手がけるが、河合へ戻る[1][4][5]。1933年(昭和8年)には、河合が改組して大都映画になると、同社に継続入社したが、翌1934年(昭和9年)には退社して、記録映画(ドキュメンタリー映画)に転向している[1][4][5]。田中純一郎が執筆した『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)の小澤の項目には、1938年(昭和13年)8月4日に公開された『起ち上る蒙古』を最後に引退した、という旨の記述があるが[1]、ほかにも記録映画に関わった記録が残っている[5]。
第二次世界大戦終了後も、1952年(昭和27年)に『文楽 人形遣いの妙技』(監督長島豊次郎、配給松竹)に関わり[8]、1955年(昭和30年)には『カメラ誕生』(製作読売映画社、配給松竹、1957年公開)を演出した記録が残っている[6]。
1979年(昭和54年)4月19日、脳血栓により死去した[1]。満85歳没。 クレジットは特筆以外すべて「監督」である[4][5]。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[7][9]。
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