小沢佐重喜
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日本政治家.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}小沢(おざわ) 佐重喜(さえき).mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}小澤󠄁 佐重喜
1953年
生年月日1898年11月25日
出生地 日本 岩手県胆沢郡水沢町
(現:岩手県奥州市
没年月日 (1968-05-08) 1968年5月8日(69歳没)
死没地 日本 東京都港区
出身校日本大学法学部法律学科夜学卒業
前職弁護士
所属政党(民主自由党→)
自由民主党(藤山派)
称号正三位勲一等
法学士日本大学1923年
配偶者小沢みち
親族小沢一郎(長男)
第21代 行政管理庁長官
第19代 北海道開発庁長官
内閣第2次池田内閣
在任期間1960年12月8日 - 1961年7月18日
第10代 建設大臣
内閣第5次吉田内閣
在任期間1954年6月16日 - 1954年12月10日
初代 郵政大臣
初代 電気通信大臣
内閣第3次吉田内閣
在任期間1949年6月1日 - 1950年6月28日
第54代 逓信大臣
内閣第3次吉田内閣
在任期間1949年2月16日 - 1949年6月1日
第11代 運輸大臣
内閣第2次吉田内閣
在任期間1948年10月19日 - 1949年2月16日
その他の職歴
衆議院議員
(岩手県全県区→)
旧岩手2区
当選回数 10回
1946年4月11日 - 1968年5月8日
第5代 自由民主党国会対策委員長
総裁:岸信介
1960年 - 1960年
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小沢 佐重喜(旧字体:小澤佐重喜[1]、おざわ さえき、1898年明治31年〉11月25日 - 1968年昭和43年〉5月8日)は、日本政治家弁護士衆議院議員(10期)。栄典正三位勲一等

吉田茂の側近の一人。新進党民主党代表などを歴任した小沢一郎の父。
概要

『朝日人物事典』によると、

岩手県生まれ。馬車引きなどをしながら1923年日本大学法学部法律学科を卒業。弁護士となり、三木武吉に師事して1929年から東京市議、府議を5期務める。1946年の戦後初の総選挙で岩手県から衆議院議員に当選(自由党)。選挙法改正の論功行賞で1948年第2次吉田内閣運輸大臣に抜擢され、以後も、郵政電気通信大臣行政管理庁長官自由民主党国会対策委員長を歴任。三木仕込みの議会駆け引きを押しの強さで「闘牛」の異名をとり、小選挙区法案(1956年)や安保条約改定(1960年)など問題案件の審議では特別委員長に起用され、与野党激突の焦点に立った。藤山派の参謀格で当選10回。自治大臣国家公安委員長自由民主党幹事長自由党党首民主党代表などを務めた小沢一郎は長男[2]

長男・小沢一郎によると、

「父は三十歳の時から東京の市会、府会議員となって、政治の世界に入り、戦後は郷里から衆議院議員として国政に参加した。その長い政治経歴を評価されて、国会運営や党の国会対策の実務を担当し、たびたび選挙対策本部長となって選挙の采配を振っていた。その父は小選挙区制の導入を持論としていた。」という[3]
来歴・人物
生い立ち

1898年11月25日、岩手県胆沢郡水沢町水沢市を経て、現在の奥州市)の農家に生まれた。父の徳太郎は、田畑をそれぞれ三反歩ずつ所有する、いわゆる中農であった[4]。徳太郎は百姓でありながら農閑期になると寺子屋に通っていたといわれている[4]。ところが、徳太郎はかなりの大酒飲みで、のちに小沢家が没落していく原因となる[4]

田畑を手放した徳太郎は、田小路の鈴木家で下男として働き、トメと結婚した頃には馬車引きをして生計をたてていた[4]。もともと短気だったため家の中では諍(いさか)いが絶えなかった[4]。佐重喜も子どもの頃から徳太郎に逆らい、ことあるごとに口論を繰り返していた[4]
学生時代

佐重喜には六人の兄弟姉妹がいたが、家が貧しくすでに妹も長兄も奉公に出されていた[4]。佐重喜自身も幼いときから徳太郎の手伝いをさせられたが、それでも隙を見ては学校に通っていた[4]。妹たちが家の手伝いのために半分も学校に行かなかったのに、佐重喜の場合は一日だけ休んでほとんど授業に出席するという熱心さもあった[4]

だが、父徳太郎は、佐重喜が尋常小学校5年を終了する年に仙台鍛冶屋に住み込みの丁稚奉公として出してしまう[5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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