小森白
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こもり きよし
小森 白
本名小森 白
別名義大滝 翠 (おおたき みどり)
生年月日 (1920-01-27)
1920年1月27日
没年月日2003年
出生地 日本 東京都世田谷区太子堂
国籍 日本
職業映画監督脚本家映画プロデューサー
ジャンル映画
活動期間1944年 - 1973年
活動内容1944年 東宝に入社
1946年 新東宝設立に参加
1953年 監督に昇進
1958年 富士映画に出向
1959年 新東宝に復帰
1961年 新東宝倒産
1964年 小森プロ設立
1966年 東京興映設立・代表就任
1973年 引退
配偶者有
主な作品
大東亜戦争と国際裁判
『日本拷問刑罰史』
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小森 白(こもり きよし、1920年大正9年)1月27日 - 2003年平成15年))は、日本映画監督脚本家映画プロデューサーである[1][2][3][4][5]。別名大滝 翠(おおたき みどり)[2]。映画監督として活動した20年間に、60本の映画を監督した[2][3]東京興映創立者・社長[2]
人物・来歴

1920年(大正9年)1月27日東京都世田谷区太子堂に生まれる[1][2]

少年期に中華民国北京市に移り、旧制北京日本中学校(1945年廃校)を1933年(昭和8年)に卒業、東京に戻り、第二次世界大戦末期の1944年(昭和19年)3月、法政大学経済学部を卒業し、同年4月、満24歳のときに東宝に入社する[1]。終戦後、1946年(昭和21年)、新東宝(当時は新東宝映画製作所)の設立に参加、溝口健二阿部豊田中重雄中川信夫らの助監督を務める[2]

1953年(昭和28年)、33歳で監督に昇進、伊藤雄之助主演のコメディ映画『一等女房と三等亭主』でデビューする[1][2][3]。1958年(昭和33年)、大蔵貢が経営する別会社富士映画に出向、久保菜穂子主演の『太陽娘と社長族』等を監督した後に、翌1959年(昭和34年)、新東宝に復帰した[2][3]。1961年(昭和36年)の新東宝倒産まで、富士映画作品も含めて27本を監督する[1][2][3]

1962年(昭和37年)、富士映画の後身、大蔵映画で『太平洋戦争と姫ゆり部隊』を監督、翌1963年(昭和38年)には、グァルティエロ・ヤコペッティの『世界残酷物語』をヒントに、アーカイヴ・フッテージで構成した『日本残酷物語』を中川信夫らと共同監督し、新東宝興業(現在の新東宝映画)が配給した[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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