小森和子
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小森 和子(こもり かずこ、1909年(明治42年)11月11日 - 2005年(平成17年)1月8日)は、映画評論家タレント。旧姓は安彦(あびこ)。愛称は「(小森の)おばちゃま」。
プロフィール
生い立ち

東京府東京市赤坂区(今の東京都港区赤坂)に生まれ育つ。実家は裕福であった。小学校は赤坂区内に通い、当時麻布区にあった東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)を卒業した、今風に言えば港区育ちである。高等女学校卒業後、『婦人公論』誌編集部で見習い記者を務める。
会社員から結婚

関係を持った菊池寛の運営する『映画時代』誌編集部へ移り、さらに京都で作家の川口松太郎の愛人生活を送るようになる。その後、神戸にあったイギリスの船舶会社『P&O』の日本支店で会社員生活を送る。

神戸で会社員時代に知り合った、日本放送協会元会長・小森七郎の息子の小森一郎と32歳で結婚。その後第二次世界大戦終盤に神奈川県藤沢市鵠沼に疎開し、戦争の終結を迎えた。
映画評論家に

映画好きが昂じて1947年(昭和22年)に『映画の友』誌の編集部に入り、当時の編集長の淀川長治の勧めで映画評論活動を開始。のち一身上の都合で『映画の友』誌の編集部を一方的に辞職し、そのために淀川と一時険悪な関係にあった。

アメリカの映画俳優ジェームズ・ディーンの熱狂的崇拝者として有名で、エピソードも多い。作家の三島由紀夫が戦後早々と渡米して、ジェームズ・ディーン行きつけのバーを訪れたことを知るや、「その時にあなたが穿いていたズボンを頂戴。ジミーが座っていた場所に座っていた、そのズボンを」と要求し、三島を驚かせた。また『太陽の季節』がベストセラーになると、作家の石原慎太郎宅を訪れジェームズ・ディーンの代表作『理由なき反抗』について感想を述べてほしいと要請するが、石原から断られている[1]
渡米

48歳で小森一郎と離婚し、まだ日本人の渡米が困難だった1958年(昭和33年)、単身渡米して、ジェームズ・ディーンの墓参を果たすと共に、『映画の友』編集者時代からの親友シャーリー・マクレーンの紹介でハリウッドを訪問。

当時まだアメリカの映画界では日本人女性が大変珍しかったのでフランク・シナトラたちから大歓迎を受けた。シャーリー・マクレーンの娘サチコ(女優のサチ・パーカー)の名前は小森の命名による。なおこの渡米ではニューヨークで作家の檀一雄と恋愛関係になった。
バラエティ人気

話を切り出す際の一人称として「おばちゃまはねぇ…」と言っていたこともあり、「(小森の)おばちゃま」として親しまれた。1980年代から1990年代にかけて片岡鶴太郎が小森のものまねをしたことがきっかけでバラエティ番組の出演も増加し、玉ねぎ型の髪型とその喋りや人柄から人気を得た。

映画ファンが集まり語り合う場所として、六本木でムービーサロン『ココ』を20年に亘って主宰した。そこで働いていた従業員の女性を気に入り、独り身であった小森は「養女にならないか」と度々誘い、最初は女性は断っていたが、後述される小森の容態が悪くなってからは、小森の介護をするために養女となる。1992年(平成4年)に熊本県熊本市の映画サークルに、映画評論家時代の映画資料1万点を寄贈。
晩年

1995年(平成7年)3月に自宅で転び、更に転んだ先に暖房ヒーターがあり、ヒーターの熱風で顔に火傷を負ってからはマスメディアに露出することがなくなり、1998年(平成10年)11月に車椅子で淀川長治の葬儀に出席したのが公の場に姿を見せた最後となる。晩年の10年はパーキンソン病老人性認知症うつ病を患い、寝たきりの状態で自宅療養生活を送り、養女が介護していた。


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