武将・旗本の「小栗忠政」とは別人です。
凡例小栗 忠順
村上照賢画小栗忠順肖像
時代江戸時代末期
生誕文政10年6月23日(1827年7月16日)[1]
死没慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)
改名剛太郎(幼名)→忠順
別名又一(通称)
戒名陽寿院殿法岳浄性大居士[2]
墓所東善寺、雑司ヶ谷霊園、普門院[3]
官位従五位下・豊後守、上野介
幕府江戸幕府西の丸書院番、使番、目付、外国奉行、寄合席、小姓組番頭、勘定奉行、南町奉行、歩兵奉行
小栗 忠順(おぐり ただまさ、文政10年6月23日〈1827年7月16日〉 - 慶応4年閏4月6日〈1868年5月27日〉)は、幕末期の日本の武士(幕臣)。
通称は又一で、この通称は小栗家当主が代々名乗った。安政6年(1859年)、従五位下・豊後守に叙任[4]。文久3年(1863年)、上野介に遷任した。三河小栗氏第12代当主。 勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行を歴任した。 安政7年(1860年)、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、地球を一周して帰国した。その後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。 徳川慶喜の恭順に反対し、薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)に罷免されて領地である上野国群馬郡権田村
主な業績・人物
のちに、明治政府中心の歴史観が薄まると小栗の評価は見直され、大隈重信や東郷平八郎からは幕府側から近代化政策を行った人として評価されている。司馬遼太郎は小栗を「明治国家の父の一人」と記した[9]。 文政10年(1827年)、禄高2,500石[注釈 1]の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷[注釈 2]に生まれる。幼名は剛太郎。当初、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていたが[10]、成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、14歳のころには自身の意志を誰にはばかることなく主張するようになった。 8歳から、小栗家の屋敷内にあった安積艮斎の私塾「見山楼」に入門、栗本鋤雲と知り合うこととなる[11]。武術については、剣術を島田虎之助に師事した。後に藤川整斎の門下となり、直心影流免許皆伝を許される。また砲術を田付主計
生涯
家督相続前
天保14年(1843年)、17歳になり登城する。文武の才を注目され、若くして両御番となる。率直な物言いを疎まれて幾度か役職を変えられたが、そのたびに才腕を惜しまれて役職を戻されている。嘉永2年(1849年)、林田藩の前藩主建部政醇の娘・道子と結婚する。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが浦賀に来航する。その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。このころから外国との積極的通商を主張し、造船所を作るという発想を持ったと言われる[14]。
安政2年(1855年)、父が医師の誤診により死去し[15]、家督を相続する[16]。安政6年、小栗豊後守を名乗る。
アメリカ渡航左から村垣範正、新見正興、小栗忠順 1860年ワシントン海軍工廠での使節団[17]:正使 新見正興(前列中央)、副使 村垣範正(前列左から3人目)、監察 小栗忠順(前列右から2人目)、勘定方組頭、森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭、成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)