小栗一雄
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小栗一雄小栗一雄(警視総監時代、昭和9年頃)

小栗 一雄(おぐり かずお、1886年7月8日 - 1973年1月20日)は、日本の内務官僚県知事警視総監
経歴

静岡県出身。小栗平七郎の四男として生まれる。静岡中学第一高等学校を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業し、農商務省に入り林務属となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。その後、山林事務官補・東京大林区署在勤となる。

1914年4月、一木喜徳郎文部大臣秘書官に就任し文部省参事官を兼務。1915年8月、一木大臣の内務大臣へ異動に伴い内務大臣秘書官に就任。1916年10月、京都府視学官となり、東京府視学官、奈良県警察部長、長崎県警察部長、警視庁衛生部長、警視庁保安部長、大阪府書記官警察部長、兵庫県書記官・内務部長、大阪府書記官・内務部長などを歴任。

1930年(昭和5年)8月、奈良県知事に就任。1931年(昭和6年)5月、台湾総督府に転じ内務局長となる。1932年(昭和7年)6月、福岡県知事となり、さらに1934年(昭和9年)10月、警視総監を務めた。1935年(昭和10年)5月、東京市内において約1700人に及ぶ暴力団員、政治結社の構成員らの摘発を行う成果を上げたが[1]、1936年(昭和11年)、二・二六事件が発生したことを受けて同年3月に警視総監を休職(事実上の更迭)[2]となり、翌月に退官した。

太平洋戦争を迎え、1942年(昭和17年)6月、陸軍司政長官・ボルネオ守備軍司令部付顧問に就任し、1944年(昭和19年)4月まで在任。この間、1943年(昭和20年)6月からはマライ軍政監部付兼南方総軍司令部付(顧問)、陸軍省軍務局付も務めた。
逸話

農商務省の入省同期には、
五島慶太河合良成がいる。

文官高等試験合格同期には、重光葵吉田茂 (内務官僚)らがいる。中でも吉田茂(総理大臣になった吉田茂とは同姓同名の別人)とは、無二の親友だった[3]

中村汽船の創業者である中村精七郎とは妻同士が姉妹(安藤源五郎の娘)であり、義弟にあたる。中村には一家で広大な御世話になったと小栗は述懐している[4]

中村精七郎が米内光政の支援者であったことから、小栗も米内が佐世保鎮守府長官時代から親交をもっており、1940年1月14日の米内内閣組閣時には組閣参謀として組閣本部に入っている。[5][6][7][8]

小栗は警視総監時代の1935年1月18日に夢野久作と面会している。前年久作が『オール読物』に発表した「骸骨の黒穂」が差別的であるとして大阪水平社が抗議をしてきたため、久作が「水平社の事」を頼むと小栗は「脅迫に来ましたら直ぐ通知せられよ。特高課で扱つて上げます」と答えたという[9][10][11]

栄典

1943年(昭和18年)10月15日 - 正四位[12]

出典^ 警視庁が千七百人を一網打尽『東京日日新聞』昭和10年5月3日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p676 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
^ 二・二六事件で警視総監ら更迭『東京朝日新聞』昭和11年3月13日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p516)
^ 伊藤卯四郎 1972.
^ 的場信治郎 1958, p. 序文.
^ 阿川弘之 1979, p. 221.
^ 危な気ない手際、大阪毎日新聞、1940年1月16日
^ 米内大将に大命降下、京城日報、1940年1月15日
^ 同盟旬報 第4巻 第2号 p.86.
^ 夢野久作、杉山龍丸 1976, p. 378.
^ 骸骨の黒穂夢野久作、青空文庫
^ 『骸骨の黒穂』(夢野久作)についての文献を探しています。レファレンス協同データベース、2017年01月12日
^ 『官報』第5108号「叙任及辞令」1944年1月26日。

参考文献

秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。

歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。

秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。

伊藤卯四郎『伊藤卯四郎・越し方けわし』議事堂通信社、1972年。


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