小柳ルミ子
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「夏川るみ」はこの項目へ転送されています。夏川琉未を名乗っていた歌手については「川奈ルミ」をご覧ください。

小柳 ルミ子
出生名小柳 留美子
別名夏川るみ・rumico(旧芸名)
生誕 (1952-07-02) 1952年7月2日(71歳)
出身地 日本福岡県福岡市早良区
学歴宝塚音楽学校
ジャンル歌謡曲
職業歌手
女優
担当楽器ボーカル
活動期間1970年 - 現在
レーベル日本クラウン
事務所プラチナムプロダクション
公式サイト小柳 ルミ子

小柳 ルミ子(こやなぎ るみこ、本名:小柳 留美子、小柳 瑠美子[1]1952年昭和27年〉7月2日 - )は、日本歌手俳優である。別名でrumicoとも称する。福岡市早良区で生まれる。母親の愛子は秋田県五城目町出身[2]である。血液型はA型。愛称はルミちゃん、ルミルミ[3]など。プラチナムプロダクション所属。身長159cm(1972年3月)[1]
来歴
学生時代

筑紫女学園中学校を卒業して宝塚音楽学校へ入学する[1]。宝塚音楽学校卒業生の梓みちよと交流がある友人から紹介を得て、渡辺プロダクションへ歌手希望を願い出る。「首席で卒業したら歌手にしてあげる」との回答に応え、1970年昭和45年)に首席[4]で卒業した。同期萬あきら麻実れい東千晃らがいる。渡辺プロからの歌手デビューが約束されたが舞台経験を申し付けられ、「夏川るみ」の名で宝塚歌劇団へ入団して2か月後に退団した。当初から歌手デビューを念願とする小柳は、宝塚歌劇団は歌唱や演技を経験する腰掛けと捉えていた。
歌手デビュー後

退団した同年の1970年、歌手デビュー前に知名度を広めるためNHK連続テレビ小説』で女優としてデビューした。

1971年(昭和46年)4月25日にワーナー・ブラザース・パイオニアで初の邦楽部門歌手として契約する。作曲家平尾昌晃プロデュースする「わたしの城下町」で歌手デビューすると160万枚[5]を売り上げ、1971年のオリコン年間シングル売上チャートで第1位を記録し、第13回日本レコード大賞最優秀新人賞を獲得した。

1972年(昭和47年)には「瀬戸の花嫁」で、第3回日本歌謡大賞を受賞。ほか「お祭りの夜」「京のにわか雨」「漁火恋唄」「春のおとずれ」など大ヒットを連発、天地真理南沙織らとともに「三人娘」(のち「新三人娘」と称された)として、1970年代前半を代表する女性アイドル歌手に挙げられた。

1970年代半ばには「花のようにひそやかに」「ひと雨くれば」など叙情路線や「冬の駅」「星の砂」「お久しぶりね」など新境地を開拓し大ヒットを記録、実力歌手として好評を得る。デビューした1971年(昭和46年)から1988年(昭和63年)まで18年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場した。

女優として、1982年(昭和57年)に『誘拐報道』でキネマ旬報賞助演女優賞と第6回日本アカデミー賞最優秀助演女優賞、1983年(昭和58年)に『白蛇抄』で第7回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、それぞれを受賞した。ザ・ドリフターズの番組で志村けんと演じたコントで存在感を発揮し、TBS系の公開バラエティ番組『8時だョ!全員集合』でゲストとして最も多く出演した。
独立後

小柳はポップスミュージカルを志向するも、渡辺プロダクションと齟齬の解消を得られず、待遇の不満も募ったことから独立し、個人事務所名は志村けんに依頼して「テンプテーション(心を惹きつけるもの)」[6]とした。のちに解散して2020年現在はプラチナムプロダクションに所属する。

1989年(昭和64年)に13歳年下のダンサー大澄賢也と結婚するが、2000年(平成12年)には離婚した。

2002年平成14年)に歌手名を「rumico」、女優名を「小柳ルミ子」とする[注 1]。2002年にリリースされた島津亜矢のシングル「夜桜挽花」とアルバム『彩 -AYA-』のトータルプロデュースを手がけた。

2007年(平成19年)7月22日に27歳年下の俳優石橋正高と婚約を発表するが、入籍直前に婚約を解消した。

2010年(平成22年)7月2日に芸能生活40周年記念と誕生日記念を兼ねたパーティーを開催し、友人、芸能人、関係者ら700人が集った。

2021年にデビュー50年を迎えた。
エピソード
女優業

2000年(平成12年)に放送された連続ドラマ『明日を抱きしめて』を血縁者の不祥事で降板した三田佳子の代役を務めた。
大澄賢也と結婚

大澄賢也と結婚後は、夫婦揃いでテレビなど様々なマスコミに多く露出して精力的に活動したが、約12年で破綻し、離婚を望む大澄に「高額(1億円)の慰謝料を支払うこと」または「以前の無名のバックダンサーに戻ること」の二者択一を離婚承諾の条件として迫ったとのマスコミ報道があった。
石橋正高と婚約

石橋正高と、婚約の前年である2006年12月12日に死去した小柳の母の喪明後に、入籍を予定した。入籍直前に石橋との結婚に疑問を抱いて同居と婚約を解消する。「甘えられることに疲れた」と語るが、実際は交際が報道される1か月前に破局していた[7]
人物

宝塚音楽学校進学と芸能界指向はすべて母の影響で、娘を歌手にさせたかった母の期待を受け、幼少期は日本舞踊クラシックバレエジャズダンスタップダンスピアノ三味線書写と8つの習い事に通った。

同年代の天地真理は同じ渡辺プロダクションの所属で比較されることも多く、人気が高かった天地に激しく嫉妬した。シングルレコードのジャケット写真が天地は白雪姫のような豪華な衣装で小柳は私服であったことなどの不平を、数十年後に放送されたテレビ特番で、天地へ直言したが、所属に対する不満に過ぎない。

麻雀を大いに好み、フジテレビ系『THEわれめDEポン』で風間杜夫阿藤快長門裕之ら実力派に小四喜自摸和したことがある。


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