小林繁
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小林茂」あるいは「小林藹」とは別人です。

小林 繁基本情報
国籍 日本
出身地鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町
生年月日1952年11月14日
没年月日 (2010-01-17) 2010年1月17日(57歳没)
身長
体重178 cm
68 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1971年 ドラフト6位
初出場1973年9月26日
最終出場1983年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


鳥取県立由良育英高等学校

全大丸

読売ジャイアンツ (1973 - 1978)

阪神タイガース (1979 - 1983)

コーチ歴


近鉄バファローズ
大阪近鉄バファローズ
(1997 - 2001)

SKワイバーンズ (2007)

北海道日本ハムファイターズ (2009)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小林 繁(こばやし しげる、1952年11月14日 - 2010年1月17日)は、鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身のプロ野球選手投手)・コーチ解説者評論家スポーツキャスタータレント俳優
経歴
少年時代

8歳の時に父親から野球用のグラブを渡され、キャッチボールを日課とするようになった[1]。小学校時代にソフトボールをプレーし[2]、中学時代は野球部に所属[3]。当時は胃腸が弱かったこともあり、身長170cmに対して体重が50kgほどしかなかった[4]
由良育英高校時代

中学卒業後の1968年由良育英高校へ入学し、野球部に入部。当時監督を務めていた牧野紀史は当時の小林について、「特にボールが速かったわけではない。コントロールは悪くなかったが、抜群に良いというほどでもなかった」、「投げるボール自体は大したことはない」、「『どうしても欲しい』と思うようなピッチャーではありませんでした」と語る一方、「印象的だったのは、マウンドで常に小林は冷静だった」、「タテに割れるカーブ[注 1]を織り交ぜて、相手バッターのタイミングを上手く外す。投球技術は中学生離れしていました」と評している[6]。身体面では並外れたバネが印象に残っているという[6]。2年次の1969年までは1学年上の竹中昭がエースを務め、小林は投手としての練習を続けながら外野手として試合に出場。牧野は三塁手としての起用も打診したが、小林はこれを断り[7]、自分より球威も球速もあるボールを投げる竹中に対抗するためにオーバースローからサイドスローへの転向を図った。転向後は球威・球速ともに向上し、今度はシュートを習得[8]したが、サイドスローへの転向の背景には「右痛を避けるため」という理由もあった[9]

3年次の1970年にはエースとしてチームを牽引するが、同年5月2日付「日本海新聞」は、由良育英高校を「小林投手のワンマンの感じが強い」と評している[10]。同年は春季中国大会県予選決勝に進むが米子東高に敗退し、夏の甲子園県予選は準決勝で米子工に敗れ、東中国大会には進めなかった[11]。当時は練習試合で、審判の判定に文句を付けるなど、負けん気が強く鼻っ柱の強い性格を露わにしていた[4]一方で幼少期からの胃腸の弱さがたたり、夏の県予選ではスタミナ切れに悩まされていたという[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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