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小林 源文(こばやし もとふみ、1951年1月28日[1] - )は、日本の漫画家、イラストレーター。戦場劇画の第一人者[2]。 福島県生まれ、小学校低学年から東京育ち、東京都在住[1]。川崎市立工業高等学校(現:川崎市立川崎総合科学高等学校)卒業[3]。中西立太に師事し、共著の『壮烈!ドイツ機甲軍団』でデビュー[2]。主要作品に『黒騎士物語』『Cat Shit One』など[2]。2008年に個人で『GENBUNマガジン』を創刊[2]。出版社カンプグルッペ・ゲンブンを経営[2]。 1951年、警察官の両親の間に生まれる。母は元看護婦で、戦後福島県警の婦人警察官第1号となった人物である。父は戦争中帝国陸軍の憲兵だったが、終戦後警察官となった。父は問題を起こして警察を辞め、その後の再就職先でもトラブルが絶えず、職を転々としていた[4]。 イラストレーターの中西立太に影響を受けて、絵の世界を目指す。絵の勉強のために、中西に弟子入りを申し出るが断られる。しかし、中西よりいつでも仕事場に遊びにきて良いとの許可をもらっており、見様見まねと独学で絵の勉強をした。 プロデビューは師と仰ぐ中西との共同執筆の『壮烈!ドイツ機甲軍団』であり、小林が24歳のときであった。その後、一旦はプロ活動を休止するが、『月刊ホビージャパン』の連載で人気が確立すると、サラリーマンを退職しプロの漫画家としての活動を開始した[2]。十数年間、会社で運転手をしていたが、クリスマスにバイクの自損事故を起こし、職場に戻ったらクビになっており、そのまま絵に専念するようになる[5]。 作風としては、戦争劇画ともいえる作風で、戦争を題材とした劇画を描く漫画家としては第一人者とも呼ばれる。小林自身は元々は漫画家を志していたのではなく、挿絵画家を目指していたこともあり[2]、緻密な画風を得意とし、スクリーントーンは使わず、薄墨による独特のタッチを用いている。 昨今才能があるイラストレーターが誰も育ってないと危惧しており、自ら本物の絵描きを育てたいという目的で、アートスクールを開講し後進の指導にも努めている[1]。 また、萌え絵や萌えミリ その他にも、リトルアーモリーのイラストレーターで知られるdaitoが表紙イラストを担当した内田弘樹の同人誌[7](第二次世界大戦時ドイツ陸軍として東部戦線に従軍した日本人義勇兵について記した本)を「同人誌レベルを越えた優れた資料なんだが、表紙がこれじゃー余りにも情けない」「増刷するときは自分が表紙イラストを描くよ」と断じ、商業誌には「内容は表紙を除いてお薦めします」という評価を下している。 趣味は小学生以来の映画鑑賞、現在の仕事のベースになっていると本人は認識している[1]。 多数の作品でスターシステム的に登場するコメディリリーフ・佐藤中村コンビのモデルは、小説家の佐藤大輔と、作者の娘婿で元アシスタントの中村正徳である。作者本人が登場して自虐ギャグ的に理不尽な婿いびりをすることもある。 1980年代前半に小林の名を騙った人物が起こした「偽小林源文事件」[8]が発生した。
来歴
人物
偽小林源文事件