小林清志
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その他の同名の人物については「小林清志 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

林下清志」、「小林清」、あるいは「小林清 (地方公務員)」とは別人です。

こばやし きよし
小林 清志
プロフィール
本名小林 清志[1][2]
愛称コバキヨ[3]
性別男性
出身地 日本東京府東京市本郷区[4]根津(現:東京都文京区根津)[5]
死没地 日本・東京都
生年月日 (1933-01-11) 1933年1月11日
没年月日 (2022-07-30) 2022年7月30日(89歳没)
血液型A型[3][6][7]
職業声優俳優ナレーター
事務所東京俳優生活協同組合(最終所属)[8]
配偶者あり[9][10]
公式サイト小林 清志|東京俳優生活協同組合
公称サイズ(時期不明)[2]
身長 / 体重168 cm / 60 kg

声優活動
活動期間1958年 - 2022年
ジャンルアニメゲーム吹き替えナレーション
俳優活動
活動期間1950年代 - 2022年
ジャンルテレビドラマ舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

小林 清志(こばやし きよし、1933年昭和8年〉1月11日[4][6][11][12] - 2022年令和4年〉7月30日[13])は、日本声優俳優ナレーター東京俳優生活協同組合の創立メンバーの一人であり[8]、同組合に所属した。

独特の渋い声を生かして、声優界の創生期から活躍した[14]。アニメでの主な出演作は『ルパン三世』シリーズの次元大介や『妖怪人間ベム』(1968年)のベムなど[8]。また、CMテレビ番組などのナレーションも多く担当し、洋画ではジェームズ・コバーンリー・マーヴィンらの吹き替えを務めていた。
経歴
生い立ち

東京府(現:東京都)の根津生まれ[5]。実家は株屋であり、父親は亡くなるまで兜町の証券会社にいた[15]。父の下では池波正太郎が働いていたという[4]第二次世界大戦中の文京区立根津小学校在学中の小学5年生のころ、学友たちと栃木県那須塩原市塩原温泉郷に疎開していた[4]。その後、父親の出身であった埼玉県加須へ縁故疎開し[15]、疎開先の旧制不動岡中学では卓球の県代表を務めた[4]。中学時代には英語の成績が優秀で(後述)、将来は作家になることを漠然と志望していた。別に「役者になりたい」と思ったわけではなく、高校時代は、わりと受験勉強ばかりだった[10]。スポーツもしていたが、ご多分にもれず青春時代だったことから、小説を書いたり読んだりなど、そういうのに興味があったという[10]。文学系統に興味はあったが、演劇はなかったという[10]

小石川高校を卒業[4][16]東京大学を受験するも、当時の世相や流行から英文科でなく仏文科を受験したため失敗。滑り止めがなかったことから浪人生活を送ることとなる[17]。その頃、学費を稼ぐために製薬会社の工場の薬品瓶を洗う洗ビン工、地下鉄の工事現場のトロッコ押しといった色々なアルバイトを半年以上続いていた[4]。この時、サンデースクール(現在の塾)で奥井潔からウィリアム・ブレイクライナー・マリア・リルケ小林秀雄を学び、大きな影響を受けたという。一方、受験に関係ない授業が多く、試験前日の飲み会で泥酔した影響もあり、翌年の再受験も失敗。合否発表後も願書を受け付けており「作家になるなら人の様を学んだ方がいいか」と、軽い気持ちで日本大学芸術学部の演劇科へ進学した[11][18]
キャリア

小林が演劇を始めたのは、大学に在学していた時のことである[注釈 1][19][20][21]。入学時は作家を目指していた小林だが、芝居の実習で立て続けに主演を任されたことを機に、演劇研究会に所属するなど芝居の虜になったことで、自然と役者になった[22]。また、大学在学中には家城巳代治今井正山本薩夫といった監督の独立プロダクション系の映画に端役で出演していた[4][10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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