小林旭
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書体デザイナーの「小林章」あるいは「小林章 (参議院議員)」とは別人です。

こばやし あきら
小林 旭
キネマ旬報』1959年9月上旬号より
本名小林 旭
生年月日 (1938-11-03) 1938年11月3日(85歳)
出身地 日本 東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区
身長180 cm
血液型AB型
職業俳優歌手
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1944年 -
活動内容1956年:デビュー
配偶者美空ひばり1962年 - 1964年
青山京子1967年 - 2020年
主な作品
『渡り鳥』シリーズ
『旋風児』シリーズ
仁義なき戦い』シリーズ
青春の門
幻之介世直し帖
修羅の伝説

 受賞
第15回FNS歌謡祭最優秀歌唱賞

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小林旭
別名マイトガイ
学歴明治大学中退
ジャンル演歌歌謡曲
職業歌手俳優
担当楽器
活動期間1956年 -
レーベル日本コロムビア(1958年 - 1964年)
日本クラウン(1964年 - 1980年)
ポリドール(1981年 - 1991年)
ソニーレコーズ(1992年 - 2000年)
ガウスエンタテインメント(2001年 - 2006年)
マイトガイレーベル(2007年 - 2009年)
テイチクレコード(2010年 - 2014年)
夢レコード(2014年 - )

YouTube
チャンネル

マイトガイチャンネル -小林旭

活動期間2020年6月16日 -
登録者数2.38万人
チャンネル登録者数・総再生回数は
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小林 旭(こばやし あきら、1938年昭和13年〉11月3日[注釈 1] - )は、日本俳優歌手。本名は同じ。身長180cm体重98kg血液型はAB型[2]。特技は柔道(五段)、ゴルフ[2]。愛称は「マイトガイ」[3]
人物・来歴

東京府東京市世田谷区(現:東京都世田谷区)出身。東宝、新東宝、文化映画の照明技師だった父[注釈 2][4]と、小唄・端唄の師匠だった母との間に生まれる[5]

1944年、小学校1年生で三越劇場の劇団公演『青い鳥』で初の舞台出演を果たす[6]。1954年、目黒高等学校在校中に日活のエキストラとなる[6]。1955年高校卒業、明治大学文学部に進むも中退[7]1956年昭和31年)、第3期日活ニューフェイスに合格し、映画『飢える魂』でデビューした[6]。1957年、『青春の冒険』で初主演を務めた[6]。1958年、石原裕次郎と共演した『錆びたナイフ』での演技が評価されると[6]、同年の『絶唱』は代表作となり、日活を代表する俳優の一人として認識されるようになる[6]1959年、映画『南国土佐を後にして』が大ヒットし[6]、石原裕次郎と並ぶスターとなる。以降、映画『渡り鳥シリーズ』、『旋風児シリーズ』、『流れ者シリーズ』などに出演。石原裕次郎らとともに日活の黄金時代を築く。

1958年(昭和33年)、日本コロムビアより「女を忘れろ」で歌手デビューした。同曲は小林によると、80万枚くらい売れただろうとのことである[8]。第二弾のレコード「ダイナマイトが百五十屯」がヒットし、ダイナマイトのマイトの部分だけを取って、マイトガイと命名される[9]。以降、映画の『ギターを持った渡り鳥』、映画『銀座旋風児(ぎんざマイトガイ)』などの主題歌、挿入歌を歌い、ヒットさせる。また、「自動車ショー歌」、「恋の山手線」などのコミックソング、「昔の名前で出ています」、「熱き心に」などの歌謡曲作品も歌っている。これらの楽曲を独特な高音を交えた歌唱で歌うことから、「アキラ節」とも呼ばれている。

映画『ギターを持った渡り鳥[10]など、『渡り鳥シリーズ』のコミカルな役を真剣に演じることで、人気シリーズに成長させた。1960年(昭和35年)頃、映画での共演をきっかけに浅丘ルリ子と同棲、結婚を考えていたが、浅丘の父の猛反対により断念し[11]、関係を解消した。1962年5月29日、小林と美空ひばりは婚約発表した。

その後、美空ひばりと雑誌での対談をきっかけに交際を始める。結婚などはまだ考えていなかったが、ひばりの意を汲んだ父親代わりの山口組三代目田岡一雄から強引に頼まれ拒めず、1962年(昭和37年)5月29日、ひばりとともに会見を開き、婚約発表した。同年11月5日、日活国際ホテルで挙式した[12][13]。「(結婚生活では)ひばりは懸命によき妻を演じようとし、女としては最高だった」と『徹子の部屋』で述懐している。小林とひばりは、ひばりの母の反対で戸籍上は入籍していない事実婚で、戸籍上はひばりは生涯独身であった。

1964年(昭和39年)に事実婚を解消。会見の2日前にひばり親子から頼まれた田岡が小林に「ひばりをみなさんに返してやりや」と引導を渡され、逆らうことは出来なかったと自著で述べている[12][14]。記者会見は別々に開かれ、小林の会見には田岡と菱和プロ社長・嘉山登一郎が同席した[14]。小林は「本人同士が話し合わないで別れるのは心残りだが、和枝(ひばりの本名)が僕と結婚しているより、芸術と結婚したほうが幸せになれるのなら、と思って、理解離婚に踏み切った」と説明[14]。この「理解離婚」という言葉は当時流行語となった[15]。また「未練はいっぱいある。皆さんの前で泣きたいくらいだ」と自身の本意でなかったと語っている。

1964年(昭和39年)、クラウンレコードへ移籍し、1967年(昭和42年)には女優青山京子と再婚。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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