経済学者の「小林彌六」とは別人です。
こばやし やろく
小林 弥六
別名義小林 靖長[1](雅号は呑酒[2])
生年月日 (1878-11-01) 1878年11月1日
没年月日 (1943-03-22) 1943年3月22日(64歳没)
出生地 日本・石川県金沢市
職業映画監督
活動期間1907年 - 1943年
著名な家族長男:小林昌典
小林 弥六(こばやし やろく、1878年11月1日 - 1943年3月22日)は、日本の映画監督。
石川県金沢市生まれ[1][2]。専門学校卒業[2]。1907年(明治40年)、横田商会に撮影技師として入社し、巡業隊に属して映写技師や活動弁士を務める[1][3]。1909年(明治42年)頃からは同社で牧野省三監督・尾上松之助主演作品の助監督に就く[1]。1912年(大正元年)の日活創立で同社の撮影部に入り、やがて監督に昇進した[3]。1920年(大正9年)、日活時代劇部が二部制となり、第一部で松之助映画の監督を務めた。翌年には牧野が日活を去ったため、以降は松之助映画を専門に撮り続けた[1][3]。1926年(大正15年)に松之助が死去してからは監督を辞め、池永浩久撮影所長の秘書、製作総務部長、衣裳係主任などを務め、定年退職後も嘱託として晩年まで撮影所に勤務した[1][3]。
主な監督作品に『お祭佐七』(1917年)、『槍の権三郎』(1918年)、『弥次喜多 前篇 善光寺詣りの巻』(1921年、辻吉朗監督と共同、現存[4])、『乞食と大名』(1925年)など。
脚注
注釈
^ 小林正典(1915年 - 不明)は、日活大将軍撮影所の子役、日活太秦撮影所の背景部、脚本部を経て、大映京都撮影所で美粧を務めた人である。美粧を担当した作品に『新・平家物語』『炎上』『釈迦』など[3]
^ 小林重夫(1917年 - 1975年)も、日活大将軍撮影所と太秦撮影所の子役を経て、兄同様美粧を務めた人である[3]
出典
^ a b c d e f 佐藤忠男『日本の映画人 日本映画の創造者たち』、日外アソシエーツ、2007年
^ a b c アサヒグラフ編集局『映画年鑑 大正13・4年度』、東京朝日新聞発行所、1925年、p.209
^ a b c d e f ⇒洛西地域映画史聴き取り調査報告U,小林昌典氏談話、立命館大学、2015年3月3日閲覧
^ ⇒弥次喜多 善光寺詣りの巻、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年3月3日閲覧
外部リンク
⇒小林弥六 - 日本映画データベース