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こばやし かんご小林 完吾
プロフィール
愛称完吾さん
出身地 日本 神奈川県鎌倉市
生年月日 (1932-04-27) 1932年4月27日(92歳)
血液型A型
最終学歴國學院大學文学部日本文学科
所属事務所オフィスこばやし
職歴元ラジオ南日本(現在:南日本放送)アナウンサー
元日本テレビアナウンサー
フリーアナウンサー
活動期間1960年 -
ジャンル報道・音楽・情報・バラエティ
配偶者小林愛子(1962年 - )
出演番組・活動
出演経歴『NNN日曜夕刊』
『NNNきょうの出来事』
『NNN昼のニュース』など
その他各地での講演・執筆活動
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ
小林 完吾(こばやし かんご、1932年4月27日 - )は、日本のアナウンサー、ニュースキャスター、司会者、ジャーナリスト[1]、タレント[2]。CMにも出演。愛称は「完吾さん[3]」。
1960年2月6日、ラジオ南日本に入社し、放送界入り。1963年9月2日、日本テレビ放送網に移籍。1992年4月、日本テレビ放送網を定年退職。フリーアナウンサーとなり、オフィスこばやしを立ち上げた。 神奈川県鎌倉市出身[4]。6人兄弟(兄2・姉2・弟)の5番目で三男[5][6][7]。両親はともに東京都出身[8]。祖父は洋画家の小林萬吾[4]。母方の祖父は医学博士の中島譲吉
来歴
1-2歳のころ、医者に「助からない」と宣告された重い肺炎を患う[10]。
神奈川県立師範学校付属小学校[11]の時、いじめにあったことから登校拒否となる[4]。
高校は、名門といわれる湘南高校に入学したが[4]、勉強について行けず、すぐに登校しなくなり1年で中退、進駐軍のハウスボーイになる[4][12][13]。その一方で、飲み屋をうろつき回る、喧嘩をするなどの不良行為を行っていた[14]。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}また、高校在学中に江藤淳や辛島昇、吉野壮児らと友人となった。[要出典]
米軍キャンプでのアルバイト中に上司から叱責を受けたのがきっかけとなり、再起のため湘南高校の定時制課程に入学した[14]。湘南高校定時制課程時には国立横浜病院病理研究室病理助手解剖担当、歯科医院助手、肥料問屋の丁稚として働きながら夜学に少しでも活気をと応援団を結成し自ら応援団長を務めたり、また、生徒会長も務めた[15][16][17]。
國學院大學文学部日本文学科へ進学。大学2年時に自殺未遂事件を起こしたが、立ち直ることを決意[18][14]。教員資格は取得しているものの、1955年頃の教育実習先の中学校では、「そろそろ教師に対する反発が始まりかけていた学生達の目を見てみると、やるならやってやろうじゃないか、という気持ちが高まって冷静な気持ちでいられなかった。教員室の中では先生同士の偽善的な雰囲気が我慢できなくて、同僚の教師にも、上司の校長先生に対してもいい顔をして右往左往している教頭先生を見て、一週間同じ職員室にいたら殴り合いになると思う。」と教員にはならなかった[19]。女子アナになった先輩から、声をほめられたことをきっかけにしてアナウンサーを志した[18][14][19]。 大学卒業時には28歳で、就職試験の年齢制限で内定にもありつけず、1960年2月6日に鹿児島県のラジオ南日本にラジオアナウンサー[20]として入社[21]。その際、「これで母を喜ばせる。」と内心思ったものだった[22]。宮田輝、高橋圭三、藤倉修一、長島金五
南日本放送時代
1962年3月9日に南日本放送同期入社のテレビ技術者の愛子と出会い、結婚した[4][5][24]。山形屋にて挙式[4]。
1963年3月、先輩から日本テレビへの移籍話があり、結局、その話のまとまるのが決まらないまま[4]、5月に南日本放送を退職した[4][21]。 1963年9月2日にニュースアナウンサーとして日本テレビにスカウトされて中途入社する[25][17]。日テレに移籍してからの最初の担当番組は相撲中継だったが[5]、「お前がやると歌舞伎中継になる」と担当から外された[23]。 『けさの訪問
日本テレビ時代
1983年2月、アナウンス部次長待遇の時に当時同部課長でもあった徳光和夫と共に、日テレの『おもしろまじめ放送局』(おもしろ:徳光、まじめ:小林)キャンペーンキャラクターとして起用され[28][29][30]、一躍茶の間の人気者となり[5][20]、脚光を浴びる[31]。4月には局アナでありながら『笑っていいとも!』(フジテレビ)の人気コーナー「テレフォンショッキング」にも徳光と共に出演した[32]。『おもしろまじめ放送局』のまじめアナウンサーとして活躍したことが評価され「ゆうもあ大賞」を受賞[33]。