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小林 多喜二
(こばやし たきじ)
自宅の火鉢にあたる28歳の多喜二。1931年。
誕生1903年12月1日
日本・秋田県北秋田郡下川沿村
(現・大館市)
死没 (1933-02-20) 1933年2月20日(29歳没)
日本・東京府東京市京橋区(現・東京都中央区)
墓地奥沢墓地(北海道小樽市)
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴小樽高等商業学校
(現・小樽商科大学)
活動期間1921年 - 1933年
ジャンル小説
文学活動プロレタリア文学(戦旗派)
代表作『一九二八年三月十五日』(1928年)
『防雪林』(1928年)
『蟹工船』(1929年)
『不在地主』(1929年)
『独房』(1931年)
『党生活者』(1932年)
デビュー作『老いた体操教師』(1921年)
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下川沿駅前の生誕碑
小林 多喜二(こばやし たきじ、1903年(明治36年)12月1日[注釈 1] - 1933年(昭和8年)2月20日)は、日本のプロレタリア文学の代表的な小説家、共産主義者、社会主義者、政治運動家。日本プロレタリア作家同盟書記長。日本共産党党員。
4歳のとき、一家で北海道の小樽に移住、小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)に学ぶ。小樽で銀行に勤めてから、葉山嘉樹、ゴーリキーなどの作品を通じてプロレタリア作家の自覚を持ち、小樽の労働運動にも関わり始めた。
1928年、共産党関係者大検挙(三・一五事件)の小樽を題材にした『一九二八年三月十五日』をプロレタリア文学の機関誌「戦旗」に載せ、翌年には『蟹工船』を発表して評価を得た。また、大農場の小作人と小樽の労働者の共同闘争を描いた『不在地主
』(1929年)が原因で銀行を解雇された。その後は投獄と保釈をくりかえし、1931年、非合法の共産党に正式に入党。しかし1933年、警察に逮捕・虐殺された。多喜二は、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市川口)[1]に小作農家の[注釈 2] 次男として生まれた。当時北海道・小樽で苦難の末に事業に成功した伯父が自分の失敗によって傾いた実家の始末を負わせていた弟夫婦(多喜二の両親)への恩返しとして「小樽の学校に通わせたい」と言う提案により長男を移住させていたが間もなく病死した。多喜二が4歳の時に伯父の計らいによって一家全員で小樽・若竹町の伯父の別宅に移住する。
生活は豊かではなかったが、伯父の工場に住み込みで働く代わりに学資を受け小樽商業学校から小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)へ進学。在学中から創作に親しみ、絵画[注釈 3] や文芸誌への投稿[注釈 4] や、校友会誌の編集委員となって自らも作品を発表するなど、文学活動に積極的に取り組んだ。小樽高商の下級生に伊藤整がおり、また同校教授であった大熊信行の教えを受ける。
この前後から、自家の窮迫した境遇や、当時の深刻な不況から来る社会不安などの影響で労働運動への参加を始めている。