小林可夢偉
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小林 可夢偉
Kamui Kobayashi
小林可夢偉 (2014年日本GP
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1986-09-13) 1986年9月13日(37歳)
出身地兵庫県尼崎市

基本情報
略称表記KOB
F1での経歴
活動時期2009-2012,2014
過去の所属チーム'09 トヨタ
'10-'12 ザウバー
'14 ケータハム
出走回数76 (75スタート)
タイトル0
優勝回数0
表彰台(3位以内)回数1
通算獲得ポイント125
ポールポジション0
ファステストラップ1
初戦2009年ブラジルGP
最終戦2014年アブダビGP
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ル・マン24時間での経歴
年2013,2016-
チーム'13 AFコルセ
'16- トヨタ・ガズー・レーシング
最高位1位 (LMH)
クラス優勝1
基本情報
世界耐久選手権 - LMGTE Proでの経歴
デビュー2013
所属'13 AFコルセ
出走回数8
優勝回数1
ポールポジション0
ファステストラップ2
シリーズ最高順位7位 (2013)
基本情報
世界耐久選手権 - LMP1での経歴
デビュー2016
所属'16- トヨタ・ガズー・レーシング
出走回数34
優勝回数2
ポールポジション5
ファステストラップ3
シリーズ最高順位1位 (2019-20)
基本情報
世界耐久選手権 - LMHでの経歴
デビュー2021
所属'21- トヨタ・ガズー・レーシング
出走回数3
優勝回数1
ポールポジション1
ファステストラップ1
シリーズ最高順位1位 (2021)

小林 可夢偉(こばやし かむい、Kamui Kobayashi, 1986年9月13日 - )は、日本兵庫県尼崎市出身のレーシングドライバー。スーパーフォーミュラではKCMGFIA 世界耐久選手権(WEC)ではTOYOTA GAZOO Racingに所属する。WECではトヨタのチーム代表を兼任する。

フォーミュラ1 (F1) 時代には、2012年日本GPで日本人3人目となる3位表彰台を獲得。耐久に転身後はル・マン24時間のコースレコードを樹立し、2019年及び2020年のデイトナ24時間、2021年のル・マン24時間で総合優勝を果たした[1]

同年12月24日、 東京運動記者クラブのモータースポーツ分科会から、2021年の最優秀選手賞に選出された[2]
初期の経歴
デビュー - 2001年

9歳でカートを始める。少年の頃より憧れのドライバーはアイルトン・セナであると発言している。1996年にカートレースにデビュー、実績を積み重ね2000年には全日本ジュニアカート選手権のシリーズチャンピオンとなる。

2001年は全日本カート選手権にステップアップし、ICAクラスに参戦してシリーズチャンピオンを獲得し、「西の小林可夢偉、東の関口雄飛」と呼ばれた。またフォーミュラトヨタレーシングスクール(FTRS)を受講しスカラシップを得た。
2002年 - 2003年

続いて4輪レースに出場することになるが、当時15歳であったためその前に日本自動車連盟(JAF)が限定A級ライセンス[3]を発行するのをしばらく待たねばならなかった。限定A級ライセンス取得後の2002年度、エッソフォーミュラ・トヨタ最終戦にて4輪レースデビューを飾る。2003年は本格的に同シリーズに参戦しランキング2位。
2004年 - 2005年

2004年にはトヨタ・ヤングドライバーズ・プログラム(TDP)の支援下、フォーミュラ・ルノー2.0イタリアシリーズに参戦しランキング7位。

2005年度はイタリアシリーズに加えユーロカップ・フォーミュラ・ルノー2.0も戦い、両シリーズともチャンピオンを獲得。なお小林はヨーロッパのフォーミュラ・ルノー選手権においてシリーズチャンピオンを獲得した最初の日本人であり、ヨーロッパのフォーミュラカー選手権において日本人ドライバーがタイトルを獲得したのは2001年度に金石年弘佐藤琢磨福田良がそれぞれドイツイギリスフランスF3選手権でシリーズチャンピオンとなって以来のことであった。
2006年 - 2007年

2006年はASM Formule 3(現在のARTグランプリのF3部門[4])からダラーラ・F305(英語版)・メルセデスF3・ユーロシリーズを戦い、ランキング8位ながらルーキーカップを獲得した。またF3マカオGPにも出場しポールポジションを獲得する健闘を見せるが決勝は19位で終えた。この時のチームメイトはセバスチャン・ベッテル、このシーズンのチャンピオンを獲得したポール・ディ・レスタ、そしてギド・ヴァン・デル・ガルデであった。

2007年も引き続き同チームのF3ユーロシリーズに参戦。同年6月30日、フランスマニクール・サーキットで開催されたシリーズ第4戦の第1ラウンドでポールポジションを獲得しそのままF3初勝利を果たした。チームメイトはこの年のF3チャンピオンを獲得し、後にルノーからF1デビューしたロマン・グロージャンウィリアムズからデビューしたニコ・ヒュルケンベルグがいる。シリーズ4位。同年11月よりフォーミュラ1チームであるトヨタF1からフランク・モンタニーに代わり、サードドライバーとして起用されることが発表された。
2008年 - 2009年2009年GP2ドイツGP

2008年GP2にアジアシリーズも含め参戦。3月23日、GP2アジアシリーズのマレーシアGPにて日本人として初優勝。4月27日、ヨーロッパに戻って行われたGP2本戦の第1戦スペイン・レース2でも日本人として初優勝した。

2008年-2009年シーズンとなったGP2アジアシリーズに、トヨタからのサポートを受けて参戦。2008年12月6日、ドバイGPにて08/09シーズンで初優勝。さらに2009年1月24日、バーレーンGPのレース1で優勝し、日本人初の連勝。2位に13ポイント差をつけランキング首位で挑んだ3月25日の最終戦、バーレーンの第1レースで4位入賞したことにより、第2レースを待たずしてアジアシリーズチャンピオンを獲得した。F1直下のカテゴリーで日本人が王座を獲得したのは初めてである。
F1での経歴
2009年トヨタF1在籍時代(2009年)2009年日本GP

2009年10月2日に開幕したF1第15戦日本グランプリで、トヨタF1チームのレギュラードライバーであるティモ・グロックが体調不良により金曜フリー走行を急遽欠場したため、リザーブドライバーであった小林がその代役として出走した。翌日はグロックが復帰したものの、そのグロックは公式予選でクラッシュして脊椎を負傷したため、次戦以降を欠場することになった[5]。これにより、小林は10月18日の第16戦ブラジルグランプリでF1デビュー、日本人としては18人目のF1ドライバーとなった。

そのブラジルグランプリでは予選11位を記録。決勝ではポイント首位のジェンソン・バトンを18周に渡り抑えて、一時は3位までポジションを上げたが、入賞に一歩とどかず9位完走だった[6]

次戦のアブダビGPも参戦することとなり、前戦同様バトンをオーバーテイクして、一時3位を走行していた。予選12位から1ストップ作戦を成功させ、チームメイトのヤルノ・トゥルーリを上回る6位入賞を果たした。1ストップ勢での上位浮上は小林ひとりであり、2007年佐藤琢磨以来、2人目となる完全日本製パッケージ[7]でポイント獲得をした。

この2戦の活躍で、来シーズンのトヨタF1チームの正ドライバーの座を確かなものとした。しかし、そのアブダビGPからわずか3日後の11月4日、トヨタF1チームがF1から完全撤退することを発表し、2010年以降は他チームにシートを求めることとなった。
2010年ザウバーF1在籍時代(2010年)2010年マレーシアGP

2009年12月17日ザウバーとのレギュラードライバー契約を発表し、撤退したトヨタを離れ2010年シーズンから新天地でのフル参戦が実現した。チームメイトはベテランのペドロ・デ・ラ・ロサ第15戦シンガポールGPからデラ・ロサに替わりニック・ハイドフェルドがチームメイトになった。

序盤戦はスタート直後の接触事故やマシントラブルにより成果を残せなかったが、トルコGPでは10位入賞し、チームのシーズン初ポイントを獲得した。中盤戦以降はマシンの改善もあり、コンスタントに入賞圏内を争うようになった。

ヨーロッパGPでは予選18位からのスタートであったが、セーフティーカー出動の混乱を巧みに乗り切り、レース終盤の53周目までタイヤを交換しないという策に出る。その53周までのレースの大半を3位で走行し、レギュレーション上のタイヤ交換義務でソフトタイヤに履き替え9位でレースに戻り、新しいタイヤのグリップ力を活かし残り2周でフェラーリフェルナンド・アロンソを、ファイナルラップの最終コーナーでトロ・ロッソセバスチャン・ブエミオーバーテイクし7位入賞を果たして、その印象的な走りは評価された。終始4位に抑えこまれていたマクラーレンジェンソン・バトンも、インタビューで小林の走りについて"Brilliant!"(素晴らしい!)と称賛した。

続くイギリスGPでも6位入賞。ハンガリーGP予選ではピットレーンの赤信号無視でペナルティを受け23番手に降格。決勝ではスタートで順位を上げ、セーフティーカー出動も味方して9位入賞を果たした。

母国日本GPでは予選14位から、他のドライバーがソフトタイヤでスタートする中、ハードタイヤで走り出した。ハイメ・アルグエルスアリを14周目、エイドリアン・スーティルを18周目にヘアピンで抜き、全53周レースの38周目にピットイン。ソフトタイヤに履き替えると、アルグエルスアリをアウト側から45周目、ルーベンス・バリチェロを48周目、ハイドフェルドを49周目に同じヘアピンで抜き、計5回のオーバーテイクをした[8]。そして2度目のアルグエルスアリをオーバーテイクする際に接触したことでマシン左側のディフレクター、サイドポンツーンの損傷に加えてフロントウィングの一部まで欠損している状況にも拘わらず7位入賞を果たし、観客を熱狂させた。なお、小林自身は何回オーバーテイクを行ったか記憶していないと語っている[9]。続く韓国GPでは8位、ブラジルGPでも10位と3戦連続入賞を果たした。

この年は決して競争力の高いマシンではなかったものの、ルーキードライバーとしては最も高いポイントである32ポイントを獲得しランキング12位。又、チームメイトと比較してもデ・ラ・ロサに7勝2敗5分、ハイドフェルドに3勝1敗1分している事になりベテランドライバー相手にも遜色ない結果を残した。
2011年2011年イタリアGP

2010年9月7日、ザウバーは小林をエースドライバーとして残留させることを発表し、2011年も引き続きザウバーから出走する[10]。チームメイトには、新人のメキシコ人ドライバーセルジオ・ペレスが起用されている[11]

開幕戦オーストラリアGPでは入賞圏内である8位でゴールしたが、レース後の検査でリアウイングに違反があったとして失格処分となった。第2戦マレーシアGPでは、マーク・ウェバーミハエル・シューマッハらとの接戦を繰り広げ7位入賞。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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