小林克也
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1943年生まれの俳優「小林勝也」あるいは1981年生まれの俳優「小林且弥」とは別人です。

こばやし かつや
小林 克也
本名小林 克也[1]
生年月日 (1941-03-27) 1941年3月27日(83歳)
出生地 日本広島県福山市
血液型A型
ジャンルラジオDJナレータータレント俳優
活動期間1970年 -
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小林 克也(こばやし かつや、1941年昭和16年〉3月27日[2] - )は、日本ラジオDJ[出典 1]ナレーター[出典 2]タレント[3]俳優[3]広島県福山市野上町出身[出典 3]。DJに特異な分野を築いた[16]第一人者[出典 4]ロック伝道者[出典 5]。「ミスター音楽」と呼ばれる事もある[22]。愛称はKORBY(コービー)。福山ふるさと大使 第1号[12]

キッスの日本公演に同行したアメリカ人ジャーナリストをして「アメリカで立派に英語の先生になれる」と言わしめた流麗な英語を話す[4]

広島大学附属福山高等学校卒業、慶應義塾大学経済学部中退[23]
来歴
英語習得からDJデビューまで

父親を早くに亡くし[4]教師だった母親の手で育てられた母子家庭[出典 6]。大きなラジオおもちゃ[出典 7]、小学校3年生の頃、ラジオの丸ダイヤルをひねると色んな言語の放送が入ってきた[出典 8]。特に小林少年の心を鷲掴みしたのが山口県岩国基地からの極東放送(FEN)[出典 9]。腹をすかせていた時代で、そこから流れてくる英語には焼いた肉の匂いが漂うような、リッチな響きがあったという[14]。一番ビックリしたのはエルヴィス・プレスリーの「監獄ロック[26]。それまでの音楽観をぶっ飛ばすような8ビートの力強いリズム、強烈なテンポに一瞬で虜になったという[26]。当時のアメリカは、ラジオが第2期黄金期を迎え、ロックンロールが若者を席巻していた[17]。日本のラジオとは違い、曲の解説はせず、アメリカンジョークを入れる[17]、例えば「この曲があまりにもホットだから、こないだアンテナの上に鳥が止まって焼け死んだ」という具合[17]。お気に入りの番組を聴くために学校を休むこともあった[17]。そのうちに天気予報、それからニュースと英語を口まねするようになった[14]。学校で英語の音読はピカイチで、先生よりも上手くなり、誰からもが認められ自信を持った。小学校6年の終わりごろから親戚の知り合いから本格的に英語を習い始め、英語の発音を徹底的に鍛えた[出典 10]。英語もおしゃべりも全部我流[9]

中学時代はボイス・オブ・アメリカオーストラリア放送ラジオ北京などの短波放送を熱心に聴取[出典 11]。1955年、ロックンロール元年を告げるビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツロック・アラウンド・ザ・クロック」も短波で聴いた[24]。エルヴィス・プレスリーをはじめとするロックに夢中になる[出典 12]。英語の授業で小林が教科書を読むと教室がシーンとなったという[26]

広島大学附属福山高等学校に首席で合格する[29]。入学後も英語に熱中し[22]、英語部に所属[30]。高校2年で英語部の部長に就任[31]。将来は英語を活かす仕事をすると決めていたため、幾何学など英語以外の科目はどうでもよくなったという[32]

このため、大学受験では現役時に東京大学東京外国語大学を記念受験で受けたが英語以外の成績に問題があったことから合格せず、浪人で英語の配点が高い慶應義塾大学経済学部に合格し、入学[33][32]。大学1年在学時に運輸省通訳案内業国家試験に合格[34][出典 13]。外国人相手の観光ガイド(通訳案内士)のアルバイトをして、実践で英語力を身につけていく[出典 14]。また大学時代にアメリカで大流行していると聞いた貸しレコード屋を友人と慶應義塾大学の前で開く[4]。しかし時代が早すぎて学生さえ寄り付かず[4]、お店はプレイガイド外人タレント仕出し屋スナック→英語と変わった[4]。精を出し過ぎ、好きな英語でも経済学の英語原書には全く興味を持てず[33]、大学を中退[14]。但し、プレイガイドを短期間でもやったことで、キョードー東京と繋がりが出て[4]、1965年から外人タレントの司会の仕事が貰えるようになった[4][注釈 1]。大学中退後は、赤坂「月世界」、赤坂プリンスホテル「マグノリア」などの外国人相手のナイトクラブなどの司会を本業とした[出典 15]。司会業は32歳まで続けたが、1970年、29歳のとき、エルビス・プレスリーのラスベガス公演を観るため渡米。何と世界のプレスリーを舞台に呼び出す仕事をしていたのは、その日のディナー給仕している人だった[26]。「俺のやってる仕事は給仕でも出来る仕事だったのか」と大きなショックを受け、以降、プロデュース的な仕事にシフトしていく[26]

電波デビューは、1965年頃、豆腐屋さんの協会のCMが最初[36]。テレビは『ジーン・ケリーショー』のナレーションが最初だが、外国の人名や単語を英語の発音通り喋ったら、ディレクターから「あまり英語っぽい発音だと聞く人が嫌う、日本語英語になっていない」と怒られた[36]

1970年、『バブリング・ポップス』(ラジオ関東 = 現・アール・エフ・ラジオ日本)のDJでラジオデビュー[出典 16]。この番組はワーナー・パイオニアの新譜(主に洋楽)を紹介する番組でその英語力と声質を活かし、一気にラジオ界の寵児となる[出典 17]。FENをまねてイントロに歌手のこぼれ話やジョークも交えトークを入れたら、それがウケて仕事が次々と舞い込んだという[14]

小林の個性を活かしてその名を強烈にアピールしたのが1971年から始まった東京12チャンネル(現・テレビ東京)の『ナウ・エクスプロージョン』(スポンサーJUN[出典 18]。同番組はアメリカの音楽ショーフィルムを購入して日本で放送したもので[出典 19]、海外アーティストの動く映像を日本で初めて紹介したテレビ番組ともいわれる[出典 20]。DJを務めた小林のそれまでの高崎一郎糸居五郎などとは一味違った英語の迫力、声の個性がヤングリスナーに注目された[出典 21]

1974年にラジオのレギュラーが3本一気に終了し、収入がガタ落ちした[36]。マンションを買う予定だった金を元手に、原宿で古い円筒形のレコードブリキのおもちゃなど、アメリカの小物を置く雑貨店「アメリカン・オールスターズ」を開く[出典 22]。自身でアメリカに買い付けに行き、よく持ち帰ったのがネオンサイン[23]原宿駅前でビラ配りもした[36]。そのうち古着ばかり売れるようになり収支はトントンで7年間店を続けた[36]。1977年?1978年頃の年収は大半がCM収入で[4]、1000?1500万円程度[4]
スネークマンショーでカルト的人気に

1976年から選曲家の桑原茂一、俳優の伊武雅刀らともにラジオ大阪で『スネークマンショー』を開始[出典 23]。「スネークマン」の名は、小林が米国のDJウルフマン・ジャックのパロディとして登場させたキャラクターが由来である(小林が巳年生まれのため)。『スネークマンショー』で、子どもの頃に憧れていたアメリカの演出に近いラジオ番組が作れた[17]

当初はDJスネークマンによる音楽番組であったが、後にDJのオーディションで知り合った伊武雅刀を誘って[38]、小林がキャラクター「咲坂守」などで2人の掛け合いによるコントを番組の曲間に挟む形式になった。当時としてはシュールで過激、不謹慎、下ネタを連発するコントがやがて話題を呼び、大阪ローカルから東京に進出しマニア的なブームを起こした[13]

さらにイエロー・マジック・オーケストラが自身のレコード『増殖』に「スネークマンショー」を収録し、武道館でライブを一緒に行ったことにより、音楽業界への知名度を上げたのはもちろん、後のエンターテイメントにまで幅広く影響を与えた[出典 24]


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