こばやし こうたい
小林 光泰
小林 光泰(こばやし こうたい、1858年8月12日(安政5年7月4日) - 1899年(明治32年)6月2日)は日本のメソジスト教会の牧師。
男子ミッションスクールを設立するための東洋英和学校会社(小林光泰、平岩愃保、土屋彦六、浅川広湖の4牧師による組織)の社長[1]。
女子ミッションスクールを設立するための東洋英和女学校会社の社長[1]。
東洋英和女学校(現:東洋英和女学院中学部・高等部)の設立者・初代校主(理事長)[1]。
妻の豊子は平岩愃保(静岡教会4代目・6代目牧師)の妹。 1858年8月12日(安政5年7月4日)江戸木挽町の諏訪因幡守上屋敷で父小林光信(諏訪藩士)と母ます子(高須藩士山中森京の娘)の子として生まれる[2]。幼名は泰助、後に改めて盛雄[2]。 1875年(明治8年)、海軍会計学舎に第二位で合格するも、眼疾を患って退舎[2]。 1877年(明治9年)、長野県師範学校で学び、その後岡田学校で小学校教師になる[2]。 1878年(明治10年)、父の光信、死去[2]。 1878年(明治11年)12月30日、甲府教会でイビーから洗礼を受ける[2]。洗礼を受けた後、イビーを助けて伝道活動に従事する。 1882年(明治15年)上京して牛込教会(現:日本基督教団頌栄教会)の会員になる。 1883年(明治16年) 1883年(明治16年) 東洋英和学校会社、カナダ・メソジスト教会の男女ミッションスクールを計画[4]。 1884年(明治17年) 1885年(明治18年) 麻布教会(鳥居坂教会)の初代専任牧師になる。築地教会(現:日本基督教団銀座教会)の牧師になる。 1887年(明治20年) 1892年(明治25年) 1893年(明治26年)6月 甲府教会に8代目牧師として転任する[5]。 1898年(明治31年)6月 再び麻布教会の牧師になり、牛込教会も兼任する。さらに、福音同盟会、矯風運動にも参加する。 1899年(明治32年)
生涯
初期
キリスト教入信
4月 牛込教会の5代目牧師となる[3]。
4月3日 平岩愃保(静岡教会4代目・6代目牧師)の妹平岩豊子と結婚する[2]。
牧師時代
按手礼を受けて牧師になる。
4月 牛込教会を離れる[3]。
9月25日 東京府知事より東洋英和女学校が設立認可される。初代校主に就任[4]。
10月20日 麻布鳥居坂町14番地に東洋英和女学校を開校[4]。
11月1日 麻布区鳥居坂町13番地に東洋英和学校が開校[4]。
5月 東洋英和女学校初代校主を退任[4]。
6月 静岡教会5代目牧師になる。
1月9日 静岡教会が大火により焼失。
11月12日 静岡教会を再建する。
12月14日 大火により静岡教会を再び焼失し、また再建する。
5月8日 麻布教会で開催された第11次年会の途中で腸チフスに罹る[6]。
6月2日 召天[6]。墓所は青山霊園1-ロ-21-5。
洗礼を授けた人
佐々木多門(麻布教会)
村岡花子(甲府教会)
脚注[脚注の使い方]^ a b c 東洋英和女学院120年史. 東洋英和女学院. (2005-02-25). pp. 38-40
^ a b c d e f g h 鳥居坂教会百年史. 日本基督教団鳥居坂教会. (1987-11-15). pp. 43-47
^ a b “日本メソヂスト牛込教会史 - 国立国会図書館デジタルコレクション
^ a b c d e 東洋英和女学院120年史. 東洋英和女学院. (2005-02-25). p. 385
^ 『東海教区史』. 日本基督教団東海教区. (2003-05-20). p. 421
^ a b 日本基督教団甲府教会百年史. 日本基督教団甲府教会. (1979-04-22). pp. 65-72
参考文献