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小林 信彦
(こばやし のぶひこ)
『ヒッチコック・マガジン』1959年10月号(宝石社)
ペンネーム中原弓彦
ウィリアム・C・フラナガン
三木洋
有馬晴夫
類十兵衛
スコット貝谷
誕生 (1932-12-12) 1932年12月12日(91歳)
日本・東京市日本橋区
職業小説家、評論家、コラムニスト
国籍 日本
最終学歴早稲田大学第一文学部英文学科
活動期間1963年 -
主題喜劇映画、下町モダニズム
代表作『オヨヨ』シリーズ
『唐獅子株式会社』
主な受賞歴芸術選奨新人賞(1973年)
「キネマ旬報」読者賞(1978年・1981年)
菊池寛賞(2006年)
デビュー作『喜劇の王様たち』
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小林 信彦(こばやし のぶひこ、1932年12月12日 - )は、日本の小説家、評論家、コラムニスト。中原 弓彦(なかはら ゆみひこ)の筆名も用いた。早稲田大学第一文学部英文学科卒業。血液型B型。
風間賢二は小林をさして「我が国における元祖おたく作家」と評した[1]。
来歴・人物
生い立ち両親、弟の小林泰彦と(1936年頃)
東京市日本橋区米沢町2-5(のちの東京市日本橋区両国18-5、現在の東京都中央区東日本橋2-18-5)に生まれる。江戸時代から9代続いた老舗和菓子屋「立花屋」の長男であった。
代々婿養子が跡を継ぐ家風であったが、やり手であった祖父は自分の息子に跡を継がせようと考えていた。だが、その「長男」(小林の父)は自動車の運転・修理が趣味であるようなモダンな趣味人であり、商人としては無能で後に小林の一家が没落する原因となった。小林はこの父親に歌舞伎や寄席などに連れていかれ、「芸人のうまい下手を、くどくどと説明するのは野暮」と教わった。
両国は商人町であり、小林は「このような町が本来の江戸以来の下町である」と作家となった後に繰り返し主張、浅草や柴又を「下町」と呼ぶ安易な「下町ブーム」に嫌悪を感じ、自分の生地について何度もエッセイや小説に描写している。
落語に淫して育つ。下町の商人家庭には、小林の世代のインテリ少年の大半が愛読した『少年倶楽部』などはなく、読書も落語の速記本が主であった。
母方の祖父は山形県村山市出身で、沖電気の創業時のメンバー、沖牙太郎の右腕といわれた高宮信三[2][3][4]。同社を退社後独立して、港区青山に高宮歯科工業という会社を設立した。信彦は子供の頃から山の手の祖父宅へ遊びに行って、この母方の祖父から自身の精神成長に大きな影響を受けたという[5]。信彦の信は信三の信から付けられている[2]。
慶應義塾幼稚舎を受験したが失敗し、日本橋区立千代田小学校(のち国民学校と改称)に入学。小学1年生の時の志望職業は第1が「上野動物園園長」、第2が落語家だった。幼少時から浅草で映画や軽演劇、ショウを見る。なかでも古川ロッパの喜劇に熱狂し、自宅でロッパの声真似をしていた[注 1]。また、人形町では末広亭で落語を聞き、明治座で新派や新国劇を見ていた。学校の「お話の時間」に、同級生の前で落語を演じる。
小学3年生の時に戦争が始まる。『無法松の一生』と『姿三四郎』を封切時に見る。
1944年8月、千代田国民学校在学中に埼玉県入間郡名栗村(現在の飯能市)へ集団疎開。疎開先で疎開者同士での陰湿ないじめに遭い、この時の悲惨な体験は後に純文学長篇『冬の神話』となって実を結んだ。小説『東京少年』(2005年)も再度この時の体験を扱っている。
戦争末期に、担任教師から将来の希望を問われ「小説家になりたいであります」と答えた。 1945年3月10日の東京大空襲で生家が焼失。かつて父が病気で中退した、文京区大塚の東京高等師範学校附属中学(現・筑波大学附属中学校・高等学校)に無試験入学するが、空襲で校舎が焼失していたため、再疎開先の新潟県高田市(現・上越市)の県立高田中学校(のち新制の新潟県立高田高等学校)に学んだ。在住先は中頸城郡(現・妙高市)。 1946年12月、東京に戻って青山の母方の実家に住み、東京高師附属中学に復学。このころ下町と山の手の文化的なギャップに開眼。中学では美術研究会に所属し、一学年上にのちの美術評論家の高階秀爾がいた。中学時代、神田の冨山房でシムノンと徳川夢声の著書を万引きしようとして店員に捕らえられ袋叩きにされたことがある。 1948年、東京高等師範学校附属高等学校(1949年に東京教育大学附属高等学校と改称、現・筑波大附属高校)に進む。同期には、嘉納行光(元全日本柔道連盟会長)、藤井裕久(元財務大臣)、鈴木淑夫(元日本銀行理事)、徳山明(元富士常葉大学学長)、中江陽三(元NHKアナウンサー)、吉田庄一郎(元ニコン会長)などがいた。 高校では、友人たちと4人で映画研究会を設立(メンバーのうち、銀行員になった荻昌孝
中学校・高等学校時代
1949年を「自分の人生で一番面白かった年」と後に語るが、1950年の朝鮮戦争の開戦により核戦争の恐怖にとらわれる。この時代のことは小説『世間知らず』に描かれている。なお高校の1年後輩には、『ニッポン無責任時代』などの脚本家となる田波靖男がいた。
同じ1950年、神保町のゾッキ本屋でさまざまな本を買う。『太宰治全集』で「人生の進路を決定」され、ヘンリー・フィールディングの『ジョゼフ・アンドルーズ道中記』で「英文科に進学する」こととなり、安藤鶴夫『落語鑑賞』で桂文楽独特の語り口を活字化する技術に衝撃を受けた。 1951年、早稲田大学と慶應義塾大学のそれぞれ文学部を受験して合格。東京大学を受けるのが当たり前とされる高校にあって、文系科目の成績は全校で一桁の実力だったので東大受験を勧められたが、理系科目が苦手だったため東大を受験しなかった。実家が没落して経済的に貧しかった引け目から早稲田に入学。面接試験では英文科志望の理由を問われて「物語性に惹かれたからです」と答え、教授から苦笑された。山本山でアルバイトしながら学業を続け、大学図書館では戦前の『キネマ旬報』を渉猟した。早稲田大学第一文学部英文学科の同級生に作家の生島治郎と映画評論家の河野基比古がいる。 1952年に父親が死去。翌1953年に店を売って、四谷に引越し、下町とは縁が切れた。 1955年、大学卒業直前に埴谷雄高編集の文芸雑誌『近代文学』1955年3月号(近代文学社)に有馬晴夫名義で短篇「白い歯車」を発表。母校早大を舞台に学生運動を扱った、後年の短篇「ある晴れた午後に」の原型的な作品である。3月に早稲田大学第一文学部英文学科を卒業。卒論ではサッカレーと悪漢小説(ピカレスク)の関係を扱った。 いざとなれば英語教師で食べて行けると考えて英文科に入学したにもかかわらず、教職課程の単位の一つを「意図的に」取り損ねたため、公立校の教員になることができなかった。唯一採用の口があった私立高校は校内暴力の評判があったため、就職を辞退。マスコミ関係への就職を望み、讀賣新聞社や光文社、さらにスポーツ新聞社や映画会社の入社試験を受けたが、空前の就職難時代だったのでことごとく失敗。三省堂に英語辞書の校正係として採用される話はほぼ決まりかけたが、直前で不採用になった。飯島小平 1956年6月、横浜市中区矢口台に転居し、日英混血の母方の親類が米兵相手に営んでいた貸家会社・有限会社レオポルド&サンに勤務。エルビス・プレスリーを聞き、衝撃を受ける。このころの体験は、後年の純文学長篇『汚れた土地』、中篇「丘の一族」に反映されている。同じころ、400枚のユーモア本格ミステリを江戸川乱歩賞に応募して落選。 駐留軍の縮小という時代の流れの中で会社が経営不振に陥り、不渡り手形を出したうえ、社内の派閥抗争に巻き込まれて社長から暴行を受け、1958年7月に失職。失業保険を受給しつつ職安に通う毎日を送る。一度は浜松の航空自衛隊の英語教師の口を紹介されたこともあるが、再軍備反対論者として辞退。 1958年9月「大学院を受験する」と身分を偽って池袋の学生下宿に潜り込み、ここに逼塞して江戸川乱歩が社主の推理小説雑誌『宝石』に「雑誌の改善案」を投稿する。先の見通しが立たず、しばしば自殺を考えた。 1958年秋、失業保険が切れる直前に、投稿していた「雑誌改善案」で実力が見込まれ宝石社の顧問として採用された。月俸は当時としても格安の5000円。 1959年1月、創刊予定だったミステリ雑誌『ヒッチコック・マガジン』の編集長に、江戸川乱歩の後押しで抜擢された。これは、宝石社の顧問だった田中潤司、宇野利泰、長谷川修二たちが就任を拒んだために小林のもとに回ってきた仕事であった。
大学進学
不本意な就職
『ヒッチコック・マガジン』編集長『ヒッチコック・マガジン』1963年3月号