小林一茶
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小林一茶の肖像(村松春甫画)
誕生1763年6月15日
信濃国柏原
死没1828年1月5日
職業俳諧師
ジャンル俳句
代表作『父の終焉日記』『七番日記』『おらが春[1]
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小林 一茶(こばやし いっさ、宝暦13年5月5日1763年6月15日) - 文政10年11月19日1828年1月5日))は、日本俳人。本名は小林弥太郎[† 1]、一茶とは俳号である。別号は?橋[2]、菊明[2]、新羅坊[3]、亜堂[3]。庵号は二六庵[4]、俳諧寺[5]

信濃国柏原で中農の子として生まれた。15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった[6]

文中の年代については、明治6年以前は何日の出来事であったか明記したものについて和暦(西暦)の形で日まで表記し、日まで表記しなかったものは和暦の年号をもとに和暦(西暦)で標示した。また明治6年の明治改暦以降についても、明治6年以前の表記と統一性を持たせるために和暦(西暦)の表記とした。また、文中の年齢は数え年で表記した。

概要

小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に北信濃の北国街道の宿場町、柏原に生まれた(実母は仁倉の里方で出産した)。小林家は柏原では有力な農民の家系であり、一茶の家族も柏原では中位クラスの自作農であった。幼い頃に母を失った一茶は、父が再婚した継母との関係が悪く、不幸な少年時代を過ごす。一茶を可愛がっていた祖母の死後、継母との仲は極度に悪化し、父は一茶と継母を引き離すことを目的として15歳の一茶を江戸に奉公に出す。この継母との確執は一茶の性格、そして句作に大きな影響を与えた。

15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める25歳の時まで一茶の音信は約10年間途絶える。奉公時代の10年間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。25歳の時、一茶は江戸の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として再び記録に現れるようになる。葛飾派の俳諧師として頭角を現しだした一茶は、当時の俳諧師の修業過程に従い、東北地方や西国に俳諧行脚を行った。また自らも俳諧や古典、そして当時の風俗や文化を貪欲に学び、俳諧師としての実力を磨いていった。39歳の時に一茶は父を失い、その後足かけ13年間、継母と弟との間で父の遺産を巡って激しく争うことになる。

40代に入る頃には、一茶は主に房総方面への俳諧行脚で生計を維持するようになった。また夏目成美ら、葛飾派の枠を超えて当時の実力ある俳諧師との交流を深めていった。その中で大衆化の反面、俗化著しかった当時の俳壇の中にあって独自の「一茶調」と呼ばれる作風を確立していく。やがて一茶の名は当時の俳句界で広く知られるようになった。しかし俳諧行脚で生活する一茶の生活は不安定であった。生活の安定を求めた一茶は、遺産相続問題で継母と弟と交渉を続けるとともに、故郷の北信濃で俳諧師匠として生活していくために一茶社中を作っていく。

51歳の時になってようやく遺産相続問題が解決し、一茶は故郷柏原に定住することになる。俳諧師として全国的に名が知られるようになった一茶は、北信濃に多くの門人を抱えた俳諧師匠となり、父の遺産も相続して待望の生活の安定を得ることが出来た。52歳にして結婚を果たしたが、初婚の妻との間の4人の子どもは全て夭折し、妻にも先立たれた。再婚相手との結婚生活は早々に破綻し、身体的には中風の発作を繰り返し、64歳の時に3度目の結婚をするものの、65歳で亡くなる数カ月前には火事で自宅を焼失するなど、後半生も不幸続きの人生であった。また一茶は弟との遺産相続問題などが尾を引いて、故郷柏原では必ずしも受け入れられず、一茶自身も故郷に対して被害意識を最後まで持ち続けた。

一茶の死後も俳句界ではその名声は落ちなかった。しかし門人たちの中から一茶の後継者は現れず、一茶調を引き継ぐものもなく、俳句界における一茶の影響力は小さいものに留まった。明治時代中期以降、正岡子規らに注目されるようになり、その後、自然主義文学の隆盛にともなって一茶の俳句は大きな注目を集めるようになり、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人としての評価が固まっていく。

一茶の俳句は「生」をテーマとしていると言われている。句作の特徴としてはまず2万句以上という多作であったこと、内容的には苦労続きの人生を反映した、生活苦や人生の矛盾を鋭く捉えた句、童謡を思わせる子どもや小動物を詠んだ句などが代表的なものとされ、表現方法では擬声語擬態語擬音語といったオノマトペの多用が特徴として挙げられる。作風の俗っぽさなどに対する根強い批判もあるが、「生」をテーマとする句は多くの人々に受け入れられ、小説や音楽のテーマとされ、故郷の柏原(長野県信濃町)などでは一茶にちなんだ行事が行われており、一茶をテーマとした記念館も建設されている。
生涯
故郷柏原雪景色の一茶家の土蔵。一茶はこの土蔵で65歳の生涯を閉じた

小林一茶の故郷である北信濃の柏原は、長野市中心部から北へ約25キロメートルの標高700メートル近い地である。周囲にある黒姫山飯縄山妙高山が望め、野尻湖も近いところにある。柏原は北国街道の宿場町であった。北国街道の宿場は慶長16年(1611年)に指定されており、柏原は北陸方面と信濃、そして江戸とを結ぶ交通の要衝として発展して、物資の中継地として地域の中心となっていた。交通の要衝の柏原には江戸からの文化も流入してきた。江戸時代、庶民の文化として発展をしてきた俳諧も、18世紀半ばの宝暦年間には柏原で行われていたことが確認されており、柏原の諏訪神社では例年歌舞伎や相撲の興行が催されていた[7]

柏原は日本でも有数の豪雪地帯であり、冬になると大人の体がすっぽりと埋もれてしまうほどになる。一茶が柏原の雪について詠んだ句の一つであるこれがまあつひの栖(すみか)か雪五尺

は、決して誇張ではない。また火山に囲まれた柏原の土壌は火山灰質で土地は痩せており、しかも標高が比較的高い高原地帯であるため、江戸期は水田よりも畑が多かった。このような厳しい風土は、一茶の作品に大きな影響を与えている[8]

一方、夏季の柏原は、晴れた日には高原地帯らしいさわやかな気候に恵まれる。冬の厳しさばかりではなく夏のさわやかな気候も、一茶の俳句世界を育む要素となった[9]。蟻の道雲の峰よりつづきけん

アリが延々と行列を作っている情景を見て、あの雲の峰からアリの行列が伸びているのだろうかと詠んだこの句は、夏、一茶の故郷の澄んだ高原の大気が生み出した句でもある[10]

北信濃は戦国時代後期、川中島の戦いに代表されるように武田信玄上杉謙信が激しい勢力争いを繰り広げるなど、戦乱が続いた影響で農地も荒廃した。やがて北信濃の戦乱が終息すると農村の復興が始まり、江戸時代に入ると復興は本格化し、新田開発も盛んになっていった。一茶の先祖はこのような北信濃の柏原に移住してきた一農民であった[11]

一茶が生きていた時代の柏原は戸数約150戸、人口約700名であった[† 2]。一茶が生まれ育った柏原の特徴のひとつとして、当時、柏原に住んでいた人々のほとんどが浄土真宗の信者であったことが挙げられる。一茶の一族も全て浄土真宗の信者であり、父、弥五兵衛は臨終の床にあって最期まで念仏を唱え続けた敬虔な浄土真宗信者で、一茶自身も熱心な信者であった。浄土真宗の教えもまた、一茶の作品に大きな影響を与えている[12]

前述のように一茶が生まれ育ち、そして生涯を終えることになる柏原は北国街道の宿場町であった。宿場は人馬を常備して公の業務に備える義務を負っていた。公の業務には佐渡金山で産出された金銀の輸送業務、朱印状などの公文書の輸送業務、そして加賀藩前田家に代表される北陸方面の大名の参勤交代時、円滑に北国街道を通行するように人馬を手配するといったものがあった。これらの業務負担は決して軽いものではなく、見返りとして地子の免除という特典が与えられた。柏原宿ではこの地子免除の特典を受けられる北国街道沿いの約878メートルの地域を伝馬屋敷と呼んだ。伝馬屋敷の境界線には土手が設けられており、宿場の発展によって伝馬屋敷の外にも家々が立ち並ぶようになっても、地子免除の特典は土手の内側の伝馬屋敷住民にしか許されなかった。後述のように勤勉であった一茶の父、弥五兵衛はこの伝馬屋敷内の家を購入した[13]

宿場町の義務として課せられた公の業務負担は重かったが、一方では民間の物資輸送、通行者も北国街道を盛んに利用するようになる。柏原宿は街道沿いに所狭しと家々が立ち並び、活況を呈していた。宿場沿いの家々の多くは馬を飼っており、一茶の父も農業の傍ら、持ち馬を使用して北国街道を通る物資の輸送業を営んでいた[14]

江戸時代の柏原で一番の名家は、名主を世襲した中村嘉左衛門家と本陣を世襲した中村六左衛門家であった。両中村家は江戸時代初期の中村利茂(肝煎清蔵)を共通の先祖を持つ親戚同士であった。中村六左衛門家は慶安2年(1649年)に仁之倉新田、寛文5年(1665年)には熊倉新田、中村嘉左衛門家は明暦2年(1656年)に大久保新田、寛文2年(1662年)には赤渋新田の開墾を主導した。新田開発の成功に伴い柏原は発展していった[15]


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