小松辰雄
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小松 辰雄基本情報
国籍
日本
出身地石川県羽咋郡富来町(現:志賀町
生年月日 (1959-05-10) 1959年5月10日(65歳)
身長
体重178 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1977年 ドラフト2位
初出場1978年10月4日
最終出場1994年8月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


星稜高等学校

中日ドラゴンズ (1978 - 1994)

コーチ歴


中日ドラゴンズ (1995 - 1997)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

小松 辰雄
YouTube
チャンネル

小松辰雄の剛速球チャンネル

活動期間2022年3月9日 -
ジャンル野球
総再生回数36,938回
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-05-13-00002022年5月13日時点。
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小松 辰雄(こまつ たつお、1959年5月10日 - )は、石川県羽咋郡富来町(現:志賀町[1]出身の元プロ野球選手投手、右投右打)・コーチ。現在はCBCテレビCBCラジオ野球解説者中日スポーツ野球評論家YouTuber

現役時代は中日ドラゴンズで活躍。昭和最後の投手三冠王を達成している。

スピードガンが日本で使用され始めた頃にその活躍で注目を浴びた事から『スピードガンの申し子』と呼ばれた[2]
経歴
プロ入り前

小学生当時より強肩ぶりを発揮し、6年生の時[3]に町内の小学生が集まり記録を競う「陸上競技記録会」のソフトボール遠投にて70m88cmの記録[3]を残す[1]。中学入学後に野球を始め、エースピッチャーとして活躍する一方で3年の時には走り高跳びの県大会に参加し3位になっている[1]

1976年夏の甲子園に石川・星稜高等学校の2年生エースとして出場。準決勝まで進出し、その年の優勝校である西東京代表の桜美林高と対戦。松本吉啓(明大?明治生命)に抑えられ敗退したものの、その剛速球は注目されることとなった。同年の日韓親善高校野球に松本、酒井圭一山崎隆造らとともに参加している。

3年生となった翌1977年春の選抜では、1回戦で滝川高のアンダースロー技巧派、西口訓史(國學院大)と投げ合うが完封負け。前の試合が長くなり、ナイター照明が灯されたが、視力が悪くサインが見えないことに焦ってしまい、思うようにプレーできなかった[4]。同年夏の甲子園では、1回戦で奈良・智弁学園山口哲治と壮絶な投手戦を繰り広げるが、序盤に制球を乱して喫した2失点が響き、1対2で敗退した。

この年の高校球界には、小松や山口の他にも夏の甲子園で優勝した兵庫・東洋大姫路高校松本正志、福島県予選を無失点で制した福島商業高校三浦広之、春の覇者、箕島高校を予選で破った和歌山・田辺高校木下透と才能あふれる投手が数多く高卒でプロ球界に入団したが、長く活躍できたのは小松だけである。

同年のドラフト会議中日ドラゴンズから2位指名を受ける(1位指名は入団が1978年秋まで遅れ、1979年に新人王となった藤沢公也)。元々プロ入りの意向は持っていたものの、小松自身は1位指名だろうと思っていたので、当時は2位指名であることが受け入れられず、駒澤大学進学へ気持ちが揺らぎ、入団拒否の姿勢を見せた。駒澤大学は星稜の山下智茂監督の出身校でもあり、太田誠監督が石川まで小松を訪ねてくるほど熱心だった[5]。これに対しドラゴンズは、スカウトの法元英明が1ヶ月以上も小松に張り付いて説得を行い、小松も翻意してドラゴンズ入団を決めた。ただ駒澤大・太田監督への配慮もあり、入団会見では星稜・山下監督が同席しないなど、いろいろとしこりを残す結果となった[6]
プロ時代

1979年、4月11日の対ヤクルトスワローズ戦(ナゴヤ球場)で3番手で登板し、プロ初勝利を記録[7]リリーフとして一軍に定着し、チーム最多の54試合に登板し6勝9敗16セーブを記録。5月には14試合に救援登板し、1勝1敗5セーブの好成績で月間MVPを獲得した[8]

1980年は9月10日の対広島東洋カープ戦(ナゴヤ球場)でプロ入り初先発し、6回に山根和夫からプロ入り初本塁打を放った[9]が、投げては7回途中まで2失点で敗戦投手となった[10]

1981年は藤沢らの不調もあって7月に先発に転向。同月15日の対ヤクルト戦で(明治神宮野球場)はシーズン初の先発登板で、9回2失点でプロ入り初完投勝利[11]。9月21日の読売ジャイアンツ戦ではプロ入り初完封勝利を挙げ、前年から174試合連続得点を続けていた巨人の記録を止める[12]など、同月は5勝無敗で自身2度目の月間MVPに選出された[13]。同年は初めて規定投球回(リーグ5位、防御率3.56)に達し、12勝6敗11セーブを記録する。

1982年は、4月4日の広島との開幕戦(広島市民球場)で自身初の開幕投手を務めるも2回5失点で敗戦投手となった[14]。同月6日の対阪神戦(ナゴヤ球場)の試合前、外野で遠投している際に右太腿を痛め[15]、翌7日に出場選手登録を抹消された[16]。8月1日に一軍に復帰[16]後、入れ替わりに故障して二軍落ちした牛島和彦に代わって抑えを務めた。優勝決定試合となった10月18日の大洋戦。監督2年目の近藤貞雄は小松を先発に選んだ。小松は2安打完封に抑え、中日は3回目のリーグ優勝を果たした[17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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