小松清廉
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 凡例小松 清廉 / 小松 帯刀

時代江戸時代後期 - 明治時代初期
生誕天保6年10月14日1835年12月3日
死没明治3年7月20日1870年8月16日
改名肝付 兼戈→小松 清廉
別名(通称)尚五郎、帯刀
)観瀾、香雪齋
墓所禰寝・小松家墓所(鹿児島県日置市日吉町吉利
官位従四位玄蕃頭
主君島津斉彬忠義明治天皇
薩摩藩家老
氏族肝付氏伴氏)→小松氏禰寝氏嫡流)
父母父:肝付兼善、母:島津久貫(又左衛門)の娘
兄弟兼両、兼次、兼之、清廉、兼文、兼資、兼愛
妻正室:小松近
側室:三木琴
清直、壽美
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小松 清廉(こまつ きよかど)は、幕末から明治初期の政治家維新の十傑の1人。旧名は肝付 兼戈(きもつき かねたけ)。通称は尚五郎(なおごろう)のちに帯刀(たてわき)。また明治には従四位下玄蕃頭の位階官職を与えられたため、玄蕃頭とも称された[1]

薩摩国吉利(2,600)領主だった薩摩藩士小松家の当主で、幕末に薩摩藩の家老に出世し藩政改革と幕末政局(薩長同盟大政奉還など)において重要な役割を果たして明治維新の成就に貢献した。維新後には新政府で参与、総裁局顧問、外国事務局判事などの要職に任じられていたが、直後の明治3年(1870年)に世を去った[2]

明治に入ってすぐの病死だったため、その後に明治政府で活躍した同じ薩摩出身の西郷隆盛大久保利通の知名度に隠れがちであったが、小松家について多く記した玉里島津家史料の黎明館への寄贈により、21世紀にその事績の研究と再評価が進んだ[3]

なお孫にあたる小松帯刀は祖父清廉の維新の功により明治29年(1896年)に華族伯爵に列せられている[4]
生涯
少年期

天保6年(1835年)10月14日、薩摩国鹿児島城山下町の喜入屋敷にて喜入領主・肝付兼善(5,500石)の三男として生まれたとされるが[5]、系図によれば兼善の四男である[6]。次兄の兼次が3歳(満1歳)で夭亡したため、三男のように育ったということか。母は島津久貫(又左衛門)の娘である[7]。父母は次兄・要之介を寵愛しており、乳母も短慮な性格であったため、両親の愛情に恵まれず育ったという[8][注釈 1]。13、14歳頃から学問の才覚を発揮し、漢学者・横山安容の下で儒学を修める[9]。だが体質的に虚弱であったことと昼夜を問わない勉学が災いして、17歳を数える頃から病に伏せがちの生活を送るようになった[9]。しかし、勉学に対する向上心は衰えることなく、湯治に出向いた先でも地域や身分の異なる様々な人々から知識や考えを吸収していったという[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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