小松宮彰仁親王
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小松宮彰仁親王
小松宮

続柄

伏見宮邦家親王第8王子

崇光天皇男系15世孫

霊元天皇女系6世孫


称号元帥陸軍大将大勲位功二級小松宮彰仁親王殿下
身位親王
敬称殿下
出生1846年2月11日
日本京都
死去 (1903-02-18) 1903年2月18日(57歳没)
大日本帝国東京府
埋葬1903年2月26日
豊島岡墓地
配偶者彰仁親王妃頼子(有馬頼子)
子女依仁親王(養子)
父親伏見宮邦家親王
母親堀内信子
栄典 大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
勲一等旭日大綬章
功二級金鵄勲章
役職元帥陸軍大将近衛師団長参謀総長、博愛社総長 → 日本赤十字社初代総裁、大日本水産会会頭、大日本山林会総裁、大日本武徳会総裁、高野山興隆会総裁 他多数
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小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう、1846年2月11日弘化3年1月16日〉 - 1903年明治36年〉2月18日)は、日本皇族陸軍軍人官位元帥陸軍大将大勲位功二級伏見宮邦家親王第8王子である[1]。妃は、旧・久留米藩有馬頼咸の長女頼子明治維新時には三職のうち議定となり仁和寺宮嘉彰親王と名乗っていた。
経歴幕末期。仁和寺宮嘉彰時代の写真(中央の人物)

安政5年(1858年)、仁孝天皇猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。

慶応3年(1867年)、還俗を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)と名乗る。明治維新にあっては議定、軍事総裁に任じられ、戊辰戦争では奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。1870年明治3年)に宮号東伏見宮に改める。1874年明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。

1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。親王はヨーロッパ君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範(そっせんすいはん)した。

1890年(明治23年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長参謀総長を歴任。日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。有栖川宮熾仁参謀総長が戦争中に病死するとその後任として参謀総長を務めた[2]1898年(明治31年)に元帥府に列せられる。

国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)にイギリスフランスドイツロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世戴冠式明治天皇名代(みょうだい)として臨席した。

社会事業では、日本赤十字社大日本水産会大日本山林会大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。また、1896年(明治29年)には井上円了の哲学館(のちの東洋大学)に「護国愛理」の扁額を下賜している[3]。また、川上村の金剛寺に後南朝の皇族・自天王の碑を建てた。大覚寺統の皇族が持明院統の皇族によって憐れまれたのはこれが初めてであった[4]
年譜小松宮彰仁親王(前列左)。1881年ハワイ王国カラカウア国王(前列中央)来日時の写真。上野恩賜公園にある小松宮像

弘化3年(1846年):降誕

安政5年(1858年):親王宣下・嘉彰親王。入寺得度・純仁と号す

慶応3年(1867年):王政復古・復飾を命じられる

1868年明治元年):軍事総裁、海陸軍務総督軍防事務局督軍務官知事、会津征討越後口総督

1869年明治2年):兵部卿、辞職

1870年明治3年):宮号を東伏見宮に改める。イギリス留学、議定

1873年明治6年):帰国、陸軍少尉

1874年(明治7年):佐賀の乱。佐賀征討総督。9月、陸軍少将

1875年(明治8年):勲一等旭日大綬章

1876年(明治9年):陸軍戸山学校長、兼議定官

1877年(明治10年):東京鎮台司令長官、新撰旅団司令長官

1878年(明治11年):東部検閲使

1880年(明治13年):陸軍中将・近衛都督

1882年(明治15年):宮号を小松宮と改める。大勲位菊花大綬章


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