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出典検索?: "小早川毅彦"
小早川 毅彦広島東洋カープコーチ時代
(2008年4月5日 旧広島市民球場)
基本情報
国籍 日本
出身地広島県広島市安芸区
生年月日 (1961-11-15) 1961年11月15日(62歳)
身長
体重183 cm
93 kg
選手情報
投球・打席右投左打
ポジション一塁手
プロ入り1983年 ドラフト2位
初出場1984年4月7日
最終出場1999年6月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
PL学園高等学校
法政大学
広島東洋カープ (1984 - 1996)
ヤクルトスワローズ (1997 - 1999)
コーチ歴
広島東洋カープ (2006 - 2009)
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小早川 毅彦(こばやかわ たけひこ、1961年11月15日 - )は、広島県広島市安芸区出身の元プロ野球選手(内野手、右投左打)、野球解説者、野球評論家。浅井企画所属。 両親とも小学校の教師。妹が1人いる。3歳のときに重度のネフローゼを発病し、小学校6年生まで運動を許可されなかった。広島市立矢野中学校時代から野球を始め、高校はPL学園に進学[1]。PL学園野球部創設者・井元俊秀は「小早川の獲得でPL学園の潮目が変わった」と述べている[2]。甲子園には2回出場し、1年上のチームメートに西田真次、木戸克彦、谷松浩之、金石昭人がいた。2年生の時、六番打者、一塁手として1978年春の選抜に出場するが、準々決勝で箕島高の石井毅、嶋田宗彦のバッテリーに完封を喫する[3]。同年夏の選手権でチームは初優勝を飾る[4]が、膝の故障でベンチ入りメンバーに入れなかった。翌1979年春の選抜から四番打者となるが、準決勝でまたも箕島高に延長10回サヨナラ負け[3]。同年夏は大阪大会決勝で牛島和彦、香川伸行のバッテリーを擁する浪商に敗北し、甲子園出場を逸する。高校同期には山中潔、阿部慶二、山崎剛投手、1年下に岡部明一、2年下に吉村禎章、法政でも後輩になる西川佳明投手や若井基安がいる。 卒業後は法政大学に進学。東京六大学野球リーグでは4回優勝。1年生の1980年春季リーグから四番打者を務め、史上最年少でベストナイン(一塁手)に選出される。1981年秋季リーグでは三冠王を獲得、同年の第12回明治神宮野球大会では決勝でエース山沖之彦を擁する専大を降し優勝。1982年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で仁村徹のいた東洋大を破り優勝。1982年、1983年に日米大学野球選手権大会日本代表。4年生の時には外野手に回り活躍した。リーグ戦通算98試合出場、384打数114安打、打率.297、16本塁打、72打点。ベストナイン5回(一塁手3回、外野手2回)選出。大学同期に打線の中軸銚子利夫と山崎正之(磐城高 - 法大 - ヨークベニマル監督)、坂本佳一投手、主戦投手和田護(のち日産自動車、法大助監督)、左投手樽井徹(浜松商 - 法大 - 河合楽器)、飯田孝雄、1学年上に西田と木戸、田中富生投手、1学年下に秦真司捕手、伊吹淳一、山越吉洋らがいる。 1983年のドラフト会議で2位指名を受け、広島東洋カープへ入団。 1984年は、5月から一塁手としてクリーンナップに座り規定打席(26位、打率.280)に到達。16本塁打を放ち、同年10月24日、セ・リーグ新人王に選出される[5][6]。「赤ヘルの若大将」として衣笠祥雄や山本浩二の後継者として期待された。 1985年は打率.290を記録するものの、故障もあって出場機会が減少、シーズン終盤の9月12日以降は二塁手にコンバートされた。 1986年も序盤を欠場、長内孝に定位置を譲り二塁手として起用されるなど伸び悩む。5月8日の対阪神4回戦で初めてスタメン出場し、4回表に今季1号本塁打を放つ[7]。前打者の長嶋清幸が3号2ラン、小早川に続いて木下富雄も1号を放ち、広島はこの回で1イニング3者連続本塁打を記録した[8]。
経歴
プロ入りまで
現役時代
広島東洋カープ時代