小政
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この項目では、江戸時代侠客について説明しています。石原プロモーション代表取締役専務でコマサと呼ばれた人物については「小林正彦」をご覧ください。

こまさ小政
1871年(明治4年)前後の写真
生誕吉川 冬吉 (よしかわ ふゆきち)
天保12年12月
1842年1月グレゴリオ暦
日本 遠江国敷知郡浜松宿新町
死没 (1874-05-29) 1874年5月29日(32歳没)
日本 浜松県敷知郡浜松宿高町
墓地真道山大聖寺
別名山本 政五郎 (やまもと まさごろう)
山本 音五郎 (やまもと おとごろう)
職業侠客博徒
罪名賭博罪
配偶者お加登
親吉川由蔵

小政(こまさ)[1][2][3][4][5][6]村上元三小説次郎長三国志』にC水の小政(しみずのこまさ)として登場する山本 政五郎(やまもと まさごろう、天保12年12月 / グレゴリオ暦 1842年1月 - 1874年5月29日)は、かつて実在した日本の侠客である[1][3][5]清水次郎長配下の「清水二十八人衆」に数えられ[6]、同じく次郎長配下で同姓同名の「山本政五郎」を名乗る大政(1832年 - 1881年)[7]と区別して「小政」と呼ばれる[1][3][5]。本名は吉川 冬吉(よしかわ ふゆきち)[3][4][5]目次

1 人物・来歴

2 フィクションの人物像

3 フィルモグラフィ

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

人物・来歴

天保12年12月、現行のグレゴリオ暦によれば1842年1月、遠江国敷知郡浜松宿新町(現在の静岡県浜松市中区中央)の魚屋・吉川由蔵の次男、冬吉として生まれる[3][5]桶屋の長男であるともいうが[4]、のちに判決を申し渡された際の「所刑申渡文」(1871年)には小政には、家督を継ぐ兄・由五郎があることが示されている[4]今川徳三は、「天保14年」(1843年)生まれとも言われているといい、生年は定かではないとしている[3]

笹川臨風は「遠州濱松の魚問屋の息で、十一歳の時から次郎長に養はれた」と書く[1]。『はままつ百話』(静岡新聞社)は、小政が清水次郎長(本名・山本長五郎、1820年 - 1893年)に初めて会ったのは嘉永四年(1851年)の春であるとし、そのときの小政は、浜松宿を出て東海道を西へ行った八丁畷(現在の浜松市中区森田町)で行商していたとする[4]。このとき小政は満9歳になったばかりであり、数え年は10歳であるが、「その後、次郎長の身内となり、大いに売り出した」としている[4]。養子になったときの名が山本 政五郎であるとされるが、野田宇太郎はこれを山本 音五郎(やまもと おとごろう)であるとする[2]。今川徳三によれば、山本鉄眉(のちの天田愚庵)が次郎長本人に生前取材した『東海遊侠伝』(1884年)に「小政」の名が初めて登場するのは、文久3年12月(1864年1月)、黒駒勝蔵との天竜川での対陣のくだりである[3][8]講談浪曲の世界では「大政・小政」と並び称せられるが、史実においては、小政が清水港に滞在した期間は極めて短い[3]。笹川によれば、大政が「六尺以上」(約181センチメートル)の大男であったのに対し、小政は成人しても身長が「僅々四尺八寸」(約145センチメートル)の低身長であったとし、「居合術に熟達し、三尺餘の刀を常に用ふ。敏捷精桿無比といはれた」とその特徴を描写する[1]


1865年(慶応元年)、遠江国佐野郡掛川宿(現在の静岡県掛川市)でお加登(1847年 - 1921年)と結婚したが、同地で傷害事件を起こして逃亡している[3][5]。6年間の逃亡生活を経て、明治維新後の1871年(明治4年)、清水に戻ったが[3][5]、同年に行われた荒神山手打式後の清水一家の集合写真には写っていない。1873年(明治6年)には、旧刑法成立以前の雑犯律賭博条により逮捕され、同年2月7日、准流刑5年の判決を受けて入獄した[3][4][5]。この際の「所刑申渡文」に小政の存在を定義するにあたり「遠江国敷知郡浜松宿新町 雑業由五郎弟政五郎事吉川冬吉」と記してあり、同時点では、小政は山本姓ではないが「政五郎」と名のっており、本名は「吉川冬吉」であることが示されている[4]

1874年(明治7年)5月29日、浜松県敷知郡浜松宿高町(現在の静岡県浜松市中区元城町)の浜松監獄(現在の静岡刑務所浜松拘置支所、1918年移転)[9]で獄中死去した[1][2][3][4][5]。満32歳没。国領屋こと大谷亀吉(1832年 - 1905年)の妻が小政の遺体を引き取り、曹洞宗真道山大聖寺(現在の同市中区板屋町208番地[10]、のちに現在の同区幸に移転)に墓を建てたという[11]。戒名は「白浪良満信士」[3]。今川は死因に関しても諸説あるとし、獄中での病死説と毒殺説があり、死去したのも同年4月に出所したあとに敷知郡東鴨江村(現在の浜松市中区鴨江)に刀剣商・川瀬某の所有する長屋を借りて住んでいたところ、病死した説と殴り込みに遭って殺された説があるという[3]。野田は、小政は獄死であり「享年四十二」であると書いている[2]。『はままつ百話』は、大聖寺の過去帳に「享年三十二年六力月」と記されていると指摘する[4]


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