小徳
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小徳(しょうとく)は、604年から648年まで日本にあった冠位である。冠位十二階の第2で、大徳の下、大仁の上にあたる。
概要

推古天皇11年(604年)に制定された。大化3年(647年)制定の七色十三階冠制により、大化4年(648年)4月1日に廃止になった[1]。13階のどこに引き継がれたかについては2説が対立する。一つは13階中第7階の大錦に、大徳とともにまとめられたとするもの[2]。もう一つは、13階中第8階の小錦一つに対応するというものである[3]

大徳・小徳を、当時天皇(大王)の諮問を受けて国政を議論したマエツキミ(群卿などと記される)層と同じものとみなす説がある[4]
小徳の人物

今に残る史料に見える小徳の人物は18人で、12階の中で最も多い。43年の施行期間には世代交代があろうし、地位が高いほど史書に記されやすいので全体の、また同時点での人数をここから推し量るのは難しい。しかし3人しか知られない大徳よりずっと多かっただろうし、1人の大将軍と7人の副将軍が小徳であった推古天皇31年(623年)には、それを上回る人数がいたわけである。

阿輩台(大河内糠手?)- 大業4年・推古天皇16年(608年)(隋書[5][6]

中臣国 - 推古天皇31年(623年)。群卿(マエツキミ)の一人。征新羅大将軍。(日本書紀[7]

河辺禰受 - 推古天皇31年。征新羅副将軍。(日本書紀)

物部依網乙等 - 推古天皇31年。征新羅副将軍。(日本書紀)

波多広庭 - 推古天皇31年。征新羅副将軍。(日本書紀)

近江脚身飯蓋 - - 推古天皇31年。征新羅副将軍。(日本書紀)

平群宇志 - 推古天皇31年。征新羅副将軍。(日本書紀)

大伴某 - 推古天皇31年。征新羅副将軍。[8](日本書紀)

大宅軍 - 推古天皇31年。征新羅副将軍。(日本書紀)

巨勢大海 - 推古朝(続日本紀[9]

平群神手 - 推古朝 (上宮聖徳太子伝補欠記)

秦川勝(秦河勝) - 推古朝(上宮聖徳太子伝補欠記、聖徳太子伝暦

中臣御食子 (弥気) - 推古・舒明朝(中臣氏本系帳)

長徳 - 皇極天皇元年(642年)8月13日授。百済の質。達率。(日本書紀)

巨勢徳太 - 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)

粟田細目 - 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)

大伴馬飼 - 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)

高向黒麻呂(玄理) - 大化2年(646年)9月。遣新羅使。(日本書紀)

脚注^ それぞれ『日本書紀』巻第22の推古天皇11年12月壬申(5日)条と、巻第25の大化3年是歳条、大化4年4月辛亥朔(1日)条。
^ 黛弘道『律令国家成立史の研究』301頁と365頁。
^ 武光誠『日本古代国家と律令制』3頁。増田美子『古代服飾の研究』120頁。
^ 黛弘道『律令国家成立史の研究』359頁。
^ 『隋書』巻81、倭国伝に小徳阿輩台が隋使を迎えたことが見える。これを『日本書紀』巻第22、推古天皇16年6月丙辰(15日)条に見える3人の中の大河内糠手にあてる説がある。新編日本古典文学全集『日本書紀』2、557頁注10。
^ 音や日付が合わず、岩波文庫隋書倭国伝訳注は吉士雄成も候補に挙げるが「不詳」とする。小徳の冠位の高さを考慮すれば、朝廷の場面に出ている阿倍鳥も考えられる。
^ 『日本書紀』巻第22、推古天皇31年7月条とその後の是歳条。以下、7人の副将軍については是歳条に記載。
^ 『日本書紀』に大伴連とあり名は不明。
^ 『続日本紀』巻第7、養老元年正月18日条。巨勢麻呂の薨伝に「小治田朝小徳大海之孫」とある。

参考文献

小島憲之直木孝次郎西宮一民蔵中進・毛利正守校訂・訳『日本書紀』2、小学館(新編日本古典文学全集 3)、1996年。

小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校訂・訳『日本書紀』3、小学館(新編日本古典文学全集 4)、1998年。

青木和夫稲岡耕二笹山晴生白藤禮幸校注『続日本紀』二(新日本古典文学大系13)、岩波書店、1990年。

黛弘道『律令国家成立史の研究』、吉川弘文館、1982年。

武光誠『日本古代国家と律令制』、吉川弘文館、1984年。

増田美子『古代服飾の研究』、源流社、1995年。

関連項目

冠位・位階制度の変遷


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