小幡篤次郎
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大日本帝国政治家小幡 篤次郎おばた とくじろう
肖像写真 (中津市歴史民俗資料館蔵)
生年月日1842年7月15日
天保13年6月8日
出生地 豊前国中津藩殿町
大分県中津市殿町)
没年月日 (1905-04-16) 1905年4月16日(62歳没)
出身校慶應義塾
所属政党懇話会
称号勲四等瑞宝章
親族弟:小幡甚三郎教育者
曾孫:桜井順作曲家作詞家
貴族院勅選議員
在任期間1890年9月29日 - 1905年4月16日
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小幡 篤次郎(おばた とくじろう、1842年7月15日(天保13年6月8日) - 1905年(明治38年)4月16日)は、幕末中津藩士。明治時代政治家貴族院議員)・教育者思想家慶應義塾長小幡甚三郎の兄。号は箕田。
生い立ち・経歴福沢諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』初編、明治5年2月(1872)

1842年(天保13年)、豊前国中津藩殿町(現在の大分県中津市殿町)に、中津藩家老小幡氏の中津藩士で、供番・元締兼郡奉行を務める小幡篤蔵の次男として生まれる。幼時から父に四書五経を習い、中津藩の藩校進脩館(しんしゅうかん) で藩儒・野本真城、野本三太郎、藩士・古宇田姑山らに就き漢学を学び、教頭となるが、1864年(元治元年)、福澤諭吉の勧めで江戸に出る。江戸では福澤の塾に入って英学を学び、塾長を務める(1866年(慶応2年)から1868年(慶應4年/明治元年)まで)。また、江戸幕府の教育機関である開成所で弟・甚三郎とともに英学教授手伝にもなった。

一方、旧臣の立場から奥平家の資産運用や財政改革に相談役として深く関与した。最後の藩主であった奥平昌邁の時代には、都会暮らしの奢侈から資産を減らすばかりの家計を助けることは難しかったが、次代の奥平昌恭の頃には徐々に家計も好転。1909年(明治42年)には、昌恭を欧米に漫遊の旅に出すことに貢献した[1]

1868年出版の著書『天変地異』は、雷、地震、彗星、虹といった自然現象について、「婦人小児の惑を」解くためのわかりやすい科学的解説を与えた本である。当時広く信じられていた陰陽五行思想を退け、近代的な科学知識を広めようとした本で、明治時代初めの科学啓蒙書ブームの先頭を切った。学制発布時には、小学校の教科書にふさわしい本の一つとして挙げられた[2]

1876年(明治9年)の東京師範学校中学師範科が創立される際には、その校務に参画。同年、ヨーロッパを歴遊しアメリカを経て帰朝する。1879年(明治12年)には初の東京学士会院会員に選ばれ、翌年には交詢社創立に参与して幹事に推挙される。1890年(明治23年)9月29日[3]、学識者として貴族院議員に推される。貴族院内部では、谷干城三浦安山川浩と共に懇話会に所属。貨幣制度調査委員となり、日本郵船の役員を兼ねる。勲四等瑞宝章を受ける。

その前年1889年(明治22年)10月、病に伏せった小泉信吉の代理として慶應義塾長の代理となり、1890年3月には重ねて慶應義塾長となる(1897年(明治30年)10月まで)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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