小川未明
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小川 未明
(おがわ みめい)
1953年
誕生小川 健作(おがわ けんさく)
(1882-04-07) 1882年4月7日
日本 新潟県高田
(現:上越市
死没 (1961-05-11) 1961年5月11日(79歳没)
日本 東京都杉並区高円寺南
墓地小平霊園
職業小説家
児童文学作家
言語日本語
国籍 日本
民族日本人
教育文学士
最終学歴東京専門学校大学部英文科
活動期間1904年 - 1961年
代表作『金の輪』(1919年)
赤い蝋燭と人魚』(1921年)
『月夜と眼鏡』(1922年)
『野薔薇』(1922年)
デビュー作『漂浪児』
子供岡上鈴江(次女)
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小川 未明(おがわ みめい、1882年明治15年〉4月7日 - 1961年昭和36年〉5月11日)は、小説家児童文学作家。本名は小川 健作(おがわ けんさく)。「日本のアンデルセン」「日本児童文学の父」と呼ばれ、浜田広介坪田譲治と並んで「児童文学界の三種の神器」と評された[1]。娘の岡上鈴江も児童文学者。

「未明」という雅号は小川の師である坪内逍遥が付けたもので、正しくは「びめい」と読む[2]
来歴

新潟県高田五分一町(現:上越市幸町)に生まれる[3]。父、澄晴はかつては修験者であった。上杉謙信の熱烈な崇拝者でもあった澄晴は、春日山神社を創建するため奔走した[4]。未明自身15歳頃から20歳頃まで春日山神社境内の住居に住んでいた[5]

旧制高田中学(現:新潟県立高田高等学校)、東京専門学校早稲田大学の前身)専門部哲学科を経て大学部英文科を卒業、坪内逍遙島村抱月から指導を受け、また出講していたラフカディオ・ハーンの講義に感銘を受け、卒業論文ではハーンを論じた。在学中、ロシア文学に親しみ、またナロードニキの思想に関心を寄せた。中学以来の学友に相馬御風がいる。上越市立大手町小学校体育館裏にある石碑。『野ばら』の一節が書かれている。

在学中の1904年(明治37年)、処女作「漂浪児」を雑誌『新小説』に発表し注目される。この時、逍遥から「未明」の号を与えられる。卒業直前に『新小説』に発表した「霰に霙」で小説家として一定の地位を築く。卒業後、早稲田文学社に編集者として勤務しながら、多くの作品を発表する。作品は清潔なものが多く、1916年(大正5年)に赤木桁平によって「遊蕩文学」論争が起きた時、遊蕩を描かない小説家は漱石と小川未明くらいだと言われた。

だが生活は苦しく、貧窮で二児を立て続けに喪ったうえに、一家四人がスペイン風邪に罹り、一時は危篤に陥った。早稲田の後輩である木村毅が見かねて、未明の友人である古川実や水守亀之助と相談し、印税収入を未明に贈るアンソロジー新潮社から出版することが決まった。相馬御風と片上伸が編者となったこの『十六集』には坪内逍遥が跋文を寄せ、1920年(大正9年)2月25日付で刊行された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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