日本の政治家小川 平吉おがわ へいきち
生年月日1870年1月2日(明治2年12月1日)
出生地信濃国諏訪郡御射山神戸村
(現・富士見町)
没年月日 (1942-02-05) 1942年2月5日(72歳没)
出身校帝国大学法科大学仏法科
(現東京大学法学部)
前職弁護士
所属政党立憲政友会
称号法学士
親族長男・小川一平
二男・小川平二
小川平四郎
小川平五
小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日〈明治2年12月1日〉 - 1942年〈昭和17年〉2月5日)は、日本の政治家、弁護士。号は射山。東京府平民[1]。
衆議院議員、国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。 1892年(明治25年)弁護士となり、1901年(明治34年)近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画[2]。1903年(明治36年)衆議院総選挙に出馬当選、以来当選10回[2]。 日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。 政友会に入り同会幹事長を経て1920年(大正9年)原敬内閣の国勢院総裁[2]。1925年(大正14年)に加藤高明内閣の司法大臣となり、渡辺千秋、山岡萬之助、赤池濃、北ヤ吉(北一輝の弟)らと共に『日本新聞』の再発行を開始し「日本主義」を主張した[3]。 1927年(昭和2年)田中義一内閣の鉄道大臣[2]。1929年(昭和4年)五私鉄疑獄事件、売勲事件に連座して逮捕され、1936年(昭和11年)懲役2年で入獄[2]。政界を引退[2]。1940年(昭和15年)恩赦[2]。 1941年(昭和16年)7月、胆石病を患い東京都赤坂区の自宅にて療養生活に入る。1942年(昭和17年)2月5日に死去。享年74歳。葬儀は頭山満が葬儀委員長となり、同年2月9日に愛宕の青松寺で行われた[4]。 1905年9月5日、日比谷焼打事件の首謀者の1人として同日午後、兇徒嘯聚罪 信濃国諏訪郡御射山神戸村(現・富士見町)出身。呉服商人・小川金蔵の三男[7]。少年時代から腕白坊主だった[8]。小学校時代、御射山神戸の瑞雲寺が教室に充てられたが、平吉は御本尊を抱いて歩いて教師を困らせた[7]。 11歳の時に諏訪明神上社へ仲間と遊びに行って大喧嘩をしたときは、2つも3つも年上の子供がいたが小川が総大将になった[7]。いったん逃げて坂の上に隠れた小川らは、追ってきた上社勢を一人ずつ石でねらい打ちしてやっつけた[7]。やられた上社勢の親は、4km以上離れた茅野市木舟まで追ってきたが逃げのびた[7]。その時の石投げの命令、逃げ道の選び方は、のちまで語り草になっている[7]。 14歳のとき、勉強がしたくて「草刈りに行く」と野良へ出たまま上京[7]。途中、甲府の旅館で家人につかまったが、とにかく行動的だった[7]。 上京して明治法律学校や東京大学古典講習科に入学したが中退。父兄から官吏になることを期待され、司法省正則法律学校(東京大学予備門へ合併され、後に第一高等中学校と改称される)に入学。 1889年(明治22年)帝国大学法科大学仏法科(現・東京大学法学部)へ進学、1892年(明治25年)卒業。元首相の若槻禮次郎は同期である。卒業後、代言人(翌年弁護士法が施行され弁護士になる)となり、同年に分家して一家を創立[1]。 1900年(明治33年)、立憲政友会の結成に参加。 政界初出馬は1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙で、郡部から立候補し落選した。当時の平吉は貧乏弁護士で木綿の紋付しか持ち合わせはなく、これを見た友人の矢守一太郎が気の毒に思い、自分のフロックコートを脱いで着せた[9]。借り着のダブダブのフロックコートを着て街頭へ出たところ「かかしの化け物が来た」と陰口を叩かれたが、珍妙な服装にもかかわらず演説では堂々と天下国家を論じ、その抱負を述べて一躍人気となった[9]。開票結果は1473票で、わずか37票差で落選した[9]。
概要
日比谷焼打事件扇動疑惑(無罪)
経歴
生い立ち
衆議院議員小川平吉(衆議院議員時代)