小川平吉
[Wikipedia|▼Menu]

日本政治家小川 平吉おがわ へいきち

生年月日1870年1月2日明治2年12月1日
出生地信濃国諏訪郡御射山神戸村
(現・富士見町
没年月日 (1942-02-05) 1942年2月5日(72歳没)
出身校帝国大学法科大学仏法科
(現東京大学法学部)
前職弁護士
所属政党立憲政友会
称号法学士
親族長男・小川一平
二男・小川平二
小川平四郎
小川平五
宮沢こと
娘婿・宮澤裕
小川禎子
娘婿・斎藤樹
孫・小川元宮澤喜一宮澤弘
第7代 鉄道大臣
内閣田中義一内閣
在任期間1927年4月20日 - 1929年7月2日
第29代 司法大臣
内閣加藤高明内閣
在任期間1925年2月9日 - 1925年8月2日
国勢院総裁
内閣原敬内閣
在任期間1920年5月 - 1922年6月
衆議院議員
当選回数10回
在任期間1903年 - 1936年
テンプレートを表示

小川 平吉(おがわ へいきち、1870年1月2日明治2年12月1日〉 - 1942年昭和17年〉2月5日)は、日本政治家弁護士は射山。東京府平民[1]

衆議院議員国勢院総裁、司法大臣鉄道大臣等を歴任した。警視総監を務めた斎藤樹は娘婿、宮沢喜一は孫にあたる。
概要

1892年(明治25年)弁護士となり、1901年(明治34年)近衛篤麿に従って上海の東亜同文書院創立に参画[2]。1903年(明治36年)衆議院総選挙に出馬当選、以来当選10回[2]

日露主戦論の急先鋒となった。日比谷焼打事件が起きた1905年(明治38年)9月5日の国民大会の主催者8名の1人であったことなどから芝警察署に検挙されたが無罪。

政友会に入り同会幹事長を経て1920年(大正9年)原敬内閣の国勢院総裁[2]。1925年(大正14年)に加藤高明内閣の司法大臣となり、渡辺千秋山岡萬之助赤池濃北ヤ吉北一輝の弟)らと共に『日本新聞』の再発行を開始し「日本主義」を主張した[3]

1927年(昭和2年)田中義一内閣の鉄道大臣[2]。1929年(昭和4年)五私鉄疑獄事件売勲事件に連座して逮捕され、1936年(昭和11年)懲役2年で入獄[2]。政界を引退[2]。1940年(昭和15年)恩赦[2]

1941年(昭和16年)7月、胆石病を患い東京都赤坂区の自宅にて療養生活に入る。1942年(昭和17年)2月5日に死去。享年74歳。葬儀は頭山満が葬儀委員長となり、同年2月9日に愛宕青松寺で行われた[4]
日比谷焼打事件扇動疑惑(無罪)

1905年9月5日、日比谷焼打事件の首謀者の1人として同日午後、兇徒嘯聚罪(明治13年刑法第137条)により検挙される。同日、東京地裁検事局は暴動計画教唆の証拠は全くないとして小川も釈放したが[2]、芝警察署は捜査を経て他5名とともに立件し、11月10日に起訴が行われた。東京地裁第一刑事部の裁判長今村恭太郎、陪席判事深川田次郎、同岡慶治[注釈 1]、検事安住時太郎、杉本時三郎のもとで、翌年2月26日から4月11日まで11回にわたって公判が行われた。4月21日に無罪が言い渡され、控訴がなかったため無罪が確定した[6]
経歴
生い立ち

信濃国諏訪郡御射山神戸村(現・富士見町)出身。呉服商人・小川金蔵の三男[7]。少年時代から腕白坊主だった[8]。小学校時代、御射山神戸の瑞雲寺が教室に充てられたが、平吉は御本尊を抱いて歩いて教師を困らせた[7]

11歳の時に諏訪明神上社へ仲間と遊びに行って大喧嘩をしたときは、2つも3つも年上の子供がいたが小川が総大将になった[7]。いったん逃げて坂の上に隠れた小川らは、追ってきた上社勢を一人ずつ石でねらい打ちしてやっつけた[7]。やられた上社勢の親は、4km以上離れた茅野市木舟まで追ってきたが逃げのびた[7]。その時の石投げの命令、逃げ道の選び方は、のちまで語り草になっている[7]

14歳のとき、勉強がしたくて「草刈りに行く」と野良へ出たまま上京[7]。途中、甲府の旅館で家人につかまったが、とにかく行動的だった[7]

上京して明治法律学校東京大学古典講習科に入学したが中退。父兄から官吏になることを期待され、司法省正則法律学校(東京大学予備門へ合併され、後に第一高等中学校と改称される)に入学。

1889年(明治22年)帝国大学法科大学仏法科(現・東京大学法学部)へ進学、1892年(明治25年)卒業。元首相の若槻禮次郎は同期である。卒業後、代言人(翌年弁護士法が施行され弁護士になる)となり、同年に分家して一家を創立[1]
衆議院議員小川平吉(衆議院議員時代)

1900年(明治33年)、立憲政友会の結成に参加。

政界初出馬は1902年(明治35年)8月の第7回衆議院議員総選挙で、郡部から立候補し落選した。当時の平吉は貧乏弁護士で木綿の紋付しか持ち合わせはなく、これを見た友人の矢守一太郎が気の毒に思い、自分のフロックコートを脱いで着せた[9]。借り着のダブダブのフロックコートを着て街頭へ出たところ「かかしの化け物が来た」と陰口を叩かれたが、珍妙な服装にもかかわらず演説では堂々と天下国家を論じ、その抱負を述べて一躍人気となった[9]。開票結果は1473票で、わずか37票差で落選した[9]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:77 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef