小川台合戦
戦争:安土桃山時代
年月日:天正6年(1578年)
場所:常陸国絹川
結果:勝敗つかず
交戦勢力
北条軍反北条連合軍
指導者・指揮官
北条氏政
北条氏照
佐竹義重
宇都宮国綱
結城晴朝
那須資胤
那須資晴
芳賀高継
損害
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常陸小川台合戦(ひたちおがわだいかっせん)とは北条氏政と佐竹義重を盟主とした反北条連合の合戦である。 北条氏政は天正2年(1574年)1月以来、下総国関宿城の攻撃を本格化させた。[1]上杉謙信が2月、8月と二度に渡って越山し救援に来たほか、佐竹義重らも北条軍の出鼻を挫こうと努力した。 ところが北条軍の対応を巡り11月下旬に謙信と義重が対立し決裂となる。義重は結城晴朝を通じて武田勝頼の和睦斡旋を受け入れ、謙信自身は下総、上野、北武蔵侵攻に専心することになった[2]。謙信が佐竹氏らと決別した影響は大きく、晴朝は謙信と断交し北条氏と結んだほか[3]義重の斡旋で簗田持助も抵抗を諦め16日には抵抗を諦め、19日には開城し、佐竹義重・宇都宮広綱も北条氏政と和睦し撤退した[4]。 天正3年(1575年)6月北条氏政は下野国奪取を目論み、北条氏照らを下野に侵攻させ榎本城を攻めて落城させた[1]。勢いに乗る北条軍は小山秀綱の本城を攻め、陥落寸前まで追い込んだ[1]。この事態に危機感を覚えた義重は天正2年閏11月に和睦を破棄し、謙信との同盟を復活させた[1]。謙信も小山氏滅亡危機を重視し、義重に小山秀綱支援を要請した[1]。 一方、北条氏は、天正3年(1575年)8月に里見方の上総酒井氏を圧迫し、正木種茂
目次
1 経緯
1.1 北条氏の猛攻
1.2 結城晴朝の離叛
1.3 里見氏と北条の和睦
1.4 宇都宮広綱の反北条連合復帰
2 小川台合戦
3 常陸小川台合戦の意義
4 脚注
4.1 出典
4.2 注釈
5 参考文献
経緯
北条氏の猛攻
謙信は天正4年(1576年)5月に最期の越山を実施し新田・足利・桐生を蹂躙したが、北条氏の勢力を追い落とすことはできなかった。同年冬には、北条氏の攻勢に耐え切れず上総酒井氏が和睦を申請し、房総での北条氏の優位は明らかとなった。
この事態を受けて、正木憲時・里見義弘・梶原政景らが相次いで謙信に越山を要請し救援を請うが、応えなかった[5]。謙信は本願寺・一向一揆との同盟を契機として対織田戦争に心血を注いでいたからである[5]。謙信は能登・越中の計略が一段落すれば越山すると佐竹氏らに返答したがその機会は訪れなかった[5]。 北条氏の北関東侵攻が順調に進捗していた矢先の天正5年(1577年)6月結城晴朝が小山秀綱の調略に応じ、謙信、義重と結び北条氏と敵対する旗幟を鮮明にした[注釈 1]。氏政はただちに氏照、氏邦らを派遣し閏7月に結城城を攻撃した。晴朝はこれに激しく抵抗するが、北条軍の先鋒に城外で打ち破られ、数百人が死傷する被害を出した。[7]北条軍の攻めは8月下旬に至っても続き、その間の8月28日には山川口(結城郡)で両軍の衝突があった。この戦闘も北条氏優位ではあったが、晴朝を下すことはできなかった。 それでも宇都宮広綱が従属を申請する成果を得ることにはなった[8]。一方、晴朝が北条軍に攻撃されることを知った義重は榎本城、小山城を攻撃しようとした。その意図を察知した氏政は結城攻めと並行して榎本城の近藤綱秀のもとへ酒井康治
結城晴朝の離叛
10月9日から19日にかけて氏照・氏邦は下野国で知行宛行をしているのでこの時までには義重は軍勢を退き、北条は榎本・小山を確保し、佐竹は当初の目的である晴朝の救援は実現した。 氏照・北条氏邦らが結城氏や佐竹氏と衝突している同時期、氏政は小田原城を出陣して江戸城に入り、関宿へ向かう途中にあった[10]。氏政の攻撃目標は北関東ではなく里見氏攻略にあった。9月に氏政が東上総から北条氏規が西上総に侵攻すると30日は武田豊信が従属。 10月になって里見義弘は和睦を申し出るようになり、氏政の次女竜寿院
里見氏と北条の和睦
氏政は小田氏治の要請を受け氏治のかつての本拠で梶原政景が守る小田城の攻略に向かいつつ、結城氏に再び圧力をかけたうえで帰陣した。 危機感を感じた晴朝は水谷勝俊を宇都宮広綱のもとに派遣し、朝勝を晴朝の養子に迎え、北条氏と断交し、反北条連合に復帰した[11]。 氏政はこの動きに対抗するために天正6年(1587年)1月25日に氏政は伊達輝宗との交渉を開始し、2月23日には蘆名盛隆と佐竹挟撃を約し起請文を交換した[12]。既に田村清顕とも盟約を成立させており、蘆名氏・田村氏と共闘して佐竹方侵攻を4月下旬を期日とした[12]。 佐竹方も謙信への援軍を要請を続けており、天正6年2月10日付で関東進軍を承諾し、4月に出陣することを伝えてきた。
宇都宮広綱の反北条連合復帰