この項目では、元プロ野球選手(投手)について記述しています。元プロ野球選手(内野手)の同名の人物については「小川博 (内野手)」をご覧ください。
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小川 博基本情報
国籍 日本
出身地栃木県足利市
生年月日 (1962-04-02) 1962年4月2日(62歳)
身長
体重178 cm
68 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1984年 ドラフト2位
初出場1985年4月10日
最終出場1990年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
群馬県立前橋工業高等学校
青山学院大学
ロッテ・オリオンズ
千葉ロッテマリーンズ (1985 - 1992)
コーチ歴
千葉ロッテマリーンズ (1993 - 1999)
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小川 博(おがわ ひろし、 1962年4月2日 - )は、栃木県足利市[1]出身、群馬県育ちの元プロ野球選手(投手)。現役引退後の2004年、強盗殺人事件を起こして無期懲役の判決を受け、現在は受刑者となっている。 出生は栃木県であるが、1歳時に子供に恵まれなかった群馬県在住の大工・清掃作業員夫婦の養子となり、以後養父母の元で育つ。前橋工高ではエースとして甲子園に3回出場[1]。1979年春の選抜では、1回戦で田辺商を6回3分の1を零封、3投手完封リレーの勝利をするが、続く2回戦で川之江高の鍋島博(駒大?電電東京)に抑えられ完封負け[2]。同年夏の選手権は3回戦に進むが、比叡山高に敗退[3]。1年上のチームメートに外野手の高橋一彦がいた。翌1980年夏の選手権は2回戦(初戦)で、島田茂、秦真司のバッテリーを擁する鳴門高に延長12回サヨナラ負け[3]。高校同期には投の二本柱を組んだ左腕の番場覚(前橋市役所)がいた。甘いマスクと豪腕で人気を集めて「群玉(群馬の玉三郎)」と呼ばれ、甲子園のアイドルとなる。 卒業後は青山学院大学へ進学。東都大学野球リーグでは、1年時の1981年春季リーグでチームが二部陥落。その後も低迷するが1984年春季リーグに優勝、入替戦で中大を降し一部復帰を果たす。同年秋季リーグでは2位躍進の原動力となり、弱小だった青学大野球部の知名度向上に貢献した。大学同期には一塁手の陳光栄(鷺宮製作所)、1学年下に斉藤学がいた。 1984年のドラフト会議で阪急ブレーブスとロッテ・オリオンズから2位指名を受け、抽選の結果ロッテが交渉権を獲得し、「自分の力を試したい」と両親の反対を押し切って入団した[4]。青学大は当時はまだ運動部に力を入れる前の段階にあって、同大学出身のプロ野球選手は非常に珍しく、小川自身の人気と相俟って後の野球部躍進のきっかけをつくった。サイドスローから繰り出す速球とシンカーを武器にローテーション入りする。 1985年は開幕第3戦に先発として起用されるなど、新人ながら先発2試合を含め一軍21試合に登板し2勝を挙げた。 1986年はわずか6試合の登板に終わる。 1987年は40試合に登板し3勝5敗・防御率3.28の成績を残した。
経歴
プロ入り前
プロ入り後