小島秀夫_(ゲームデザイナー)
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出典検索?: "小島秀夫" ゲームデザイナー ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2007年12月)

こじま ひでお
小島 秀夫
2018年
生誕 (1963-08-24) 1963年8月24日(60歳)
日本東京都世田谷区
国籍 日本
職業ゲームデザイナー
実業家
活動期間1986年 -
代表作『メタルギアシリーズ
スナッチャー
ポリスノーツ
ZONE OF THE ENDERS』シリーズ
ボクらの太陽』シリーズ
DEATH STRANDING
影響を受けたもの映画
安部公房
山田正紀
田中光二
小松左京
平井和正
堀晃
影響を与えたもの伊藤計劃
配偶者あり
子供あり
受賞ゴールデンジョイスティックアワード2014 特別功労賞
D.I.C.E. Awards2016 Hall of Fame
The Game Awards2016 Industry Icon Awards
令和3年度(第72回)芸術選奨 文部科学大臣賞[1]
署名

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小島 秀夫(こじま ひでお、1963年昭和38年〉8月24日 - )は、日本ゲームクリエイター実業家コジマプロダクション代表。

コナミデジタルエンタテインメント執行役員副社長、エグゼクティブコンテンツオフィサーを歴任。開発チーム小島プロダクションの監督を務めていたが、2015年12月15日付けでコナミを退社。小島の退社後も多くのメンバーはコナミに残っているが、一部のスタッフは小島と共に退社し小島の会社に移籍している。

コナミ時代は「小島プロダクション」の「小島」が漢字表記。新会社は「コジマプロダクション」で、全てカタカナ表記。
経歴
学生時代

東京都世田谷区に生まれ、父親の仕事の都合で神奈川県茅ヶ崎市、3歳からは大阪府茨木市兵庫県川西市に移り住んだ。製薬会社の薬剤師だった父は大の映画好きで幼い頃から家のテレビでは映画が毎日流れていた[2]。父の影響により小説や映画を嗜むようになり、小学生の頃に『刑事コロンボ』のノベライズに熱中し、以後ミステリー小説、SF、冒険小説などを愛読するようになる。小学5年生で一人映画館に通うようになり、将来の夢に作家を意識するようになる。自ら漫画や小説を書くことも始めた[3]

映画監督か小説家を志し中学から高校まで友人と自主映画の制作を行っていた。そのため芸術大学への進学を希望していたが、既に父親が死去(小島が中学2年生の頃)していた家庭の事情により、断念。大阪電気通信大学に進学する[4]
1980年代

大学に進学したが、金融機関への就職をめざす友人らと話が合わず、ひとりで過ごすことも多かった[2]任天堂ファミリーコンピュータが大流行した時代、『スーパーマリオブラザーズ』に出会ったことをきっかけに、ゲームというプラットフォームの未来に可能性を感じゲーム制作者を志すようになる[5]。大学3年のときにアーケードゲームに傾倒し、当時『イーアルカンフー』など風変わりなゲームを出していたコナミに興味を持ち、1986年に同社の神戸オフィスに入社した[6]。入社後、MSXの部門に配属されたが、小島はファミコンのソフトが作りたいという思いがあったために会社を辞めようと考えていた時期があった[7]

さらにファミコンより制約が多いMSXでいかにアイディアとセンスで勝てるか苦悩の日々が続いた。その制約の中で生まれたのが1987年に発売されたMSX2用ソフト『メタルギア』であった。当時、アーケードゲームで人気のあった戦争ゲームを作ってみろ、と言われたが多くの弾丸やキャラクターを表示させることはMSXの性能では不十分であり、小島自身もそのようなものは創りたくなかった。そこで「弾や敵をあまり出させずに敵地にこっそりと潜入して進んでいく」という逆転的な発想をコンセプトにした、今で言う所のステルスアクションゲームを考案[7]。この斬新性とストーリーの完成度の高さからMSXのソフトとして大きな成功を収めた。

1988年にアドベンチャーゲームである『スナッチャー』が発売された。小島の作品の特徴となる、ゲームに映画のような手法を取り入れた初めての作品となった。1990年にはメタルギアの続編にあたる『メタルギア2 ソリッドスネーク』が発売された。コナミ最後のMSX2向けのソフトであり、『メタルギアシリーズ』はいったんここで終結した。
1990年代

1994年には『スナッチャー』で使われていた映画的手法をさらに発展させた『ポリスノーツ』が発売され、高い評価を得る。

1995年にコナミの分社化に伴いコナミコンピュータエンタテインメント大阪(後のコナミコンピュータエンタテインメントスタジオ)の開発第5部の部長になり、翌年に開発第5部がコナミコンピュータエンタテインメントジャパンとして独立、東京に開発拠点を置いた。


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