小島孝治
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この項目では、元バレーボール日本女子代表監督について記述しています。JLogos(辞書・事典横断検索サービス)の創設者の同名の人物については「小島孝治 (実業家)」をご覧ください。

小島宏司」あるいは「小島耕司」とは別人です。

小島 孝治(こじま こうじ、1930年6月29日 - 2014年5月27日)は、大阪府出身のバレーボール指導者で、元バレーボール日本女子代表監督。

クラブチームでは日紡貝塚からユニチカ・フェニックスの監督。長男は歯科医師[1]
経歴
四天王寺高校・ユニチカ

関西大学商学部卒業後の1953年四天王寺高等学校の監督になり、インターハイで3度優勝[2] して指導者としての名声を高めた。

1965年大松博文[3] の後継者として日紡貝塚女子バレーボール部の監督となる。以後、大松監督が築いた日紡貝塚の公式戦175連勝の記録を258まで延ばし[4]、バレーボール日本リーグ(現在のプレミアリーグの前身)では山田重雄監督が率いる日立[5] との二強を形成し、27回行われたリーグ戦では日立の18回に次ぐ5回の優勝をもたらした[6]

小島が推進した、相手のアタックを粘り強く拾ってポイントを重ねる「つなぐバレー」は、日本バレーの特徴となった。
全日本 第1期

全日本女子の監督も、日本リーグの二大指導者である小島と山田が交代で就任する時期が長く続いた。

1970年、小島は全日本監督に初就任。

1972年ミュンヘン五輪に参加。東京五輪の金メダルチーム(東洋の魔女)でただ一人残った松村勝美が主将を務め、山下規子古川牧子島影せい子[7]塩川美知子と合わせて5人のユニチカ選手に、日立の生沼スミエヤシカ岩原豊子浜恵子などメキシコ五輪の銀メダルメンバーを加えて、大会に臨んだ[8]。しかし、決勝でソ連に敗れ、2大会連続の銀メダルに終わった。
全日本 第2期

1978年からの第2期では、前回のモントリオール五輪でユニチカからただ一人参加し金メダルメンバーとなった横山樹理をエース兼キャプテンとしてチームの中心に据え、横山やレシーバーの広瀬美代子、セッターの小川かず子など5人のユニチカ所属選手と他チームの選手7人が合同する陣容[9] で、1980年モスクワ五輪での日本連覇と自らの雪辱を目指した。

1979年のプレ五輪では優勝したが、日本政府は同五輪のボイコットを決め、金メダル奪回は幻となった。

1981年ワールドカップでは、モスクワ五輪代表メンバーを6人残して臨んだが[10]中国の初優勝を許す銀メダルに終わった[11]

続く1982年世界選手権では、初のメダル無し(4位)に終わり、小島は全日本女子監督を退任した。
全日本 第3期

1985年、3度目の全日本女子監督就任。同年のワールドカップ[12] と翌1986年世界選手権で指揮を執ったが、いずれもメダルを逃した[13]

パワーとスピードが増して攻撃力が向上した「新しいバレーボール」に苦慮する全日本の指揮に苦闘した。世界選手権の終了後は退任し、ユニチカでの指導に専念した。

その後1991年ワールドカップでは、全日本女子チームの総監督を務めた(監督は米田一典)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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