小山氏
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小山氏
二つ頭左巴
本姓藤原北家秀郷流[1]
家祖小山政光[1]
種別武家
士族
出身地武蔵国
主な根拠地下野国都賀郡小山庄[1]
著名な人物小山朝政
結城朝光
長沼宗政
小山義政
支流、分家結城氏武家
長沼氏(武家)
吉見氏(武家)[2]
遊佐氏?(武家)
大石氏?(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

小山氏(おやまし)は、平安時代武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏を出自とする地方豪族1150年頃、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。政光は八田宗綱の娘(後に源頼朝の乳母である寒河尼)を妻とし、頼朝の信頼厚く鎌倉幕府において重用されることとなった。関東八屋形の一つ。
流祖とその出自

流派は藤原秀郷流と称する。平安時代後期に武蔵国に本領・太田郷(太田荘)を有した太田氏下野国小山荘を領し、政光1150年頃にはじめて小山に移住して小山氏を名乗った。その後妻に八田宗綱の娘を迎え頼朝の乳母となったことが結果的に鎌倉時代の小山氏隆盛の礎となった。

ただし秀郷の曾孫・兼光から小山政光までの系譜(秀郷流太田氏の系譜)は諸書で異同が多い。
小山政光までの諸系譜

尊卑分脈』          兼光━頼行━太田行尊(行高)━行政━小山政光

なお『尊卑分脈』で武行は行尊の兄、行光は行政の弟とある。また行範(行則)は頼行の弟の名としてみえる。


群書類従』「小山系図」   兼光━頼行━太田行尊━行政(宗行)━小山政光

『下野国誌』           兼光━頼行━太田行尊━宗行━行政━行光━小山政光

「白河結城系図」        兼光━頼行━太田行隆━宗行━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所および『続群書類従』)

「藤姓小山氏系図」       兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)

「諸家系図纂 結城系図」   兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光(東大史料編纂所)

行範は頼行の弟、行高が伯父頼行の養子となって家を継ぐ


『続群書類従』第155巻 系図部50「小山系図」 兼光━頼行━武行━太田行尊━行政━行光━小山政光

『続群書類従』第155巻 系図部50「結城系図」 兼光━頼行━兼行━太田行隆(宗行)━行政━行光━小山政光

兼行の弟に武行を置く。


『続群書類従』第156巻 系図部51「小山結城系図」 兼光━頼行━兼行━行則━行高━宗行━行政━行光━小山政光

『続群書類従』第156巻 系図部51「結城系図」   兼光━行範━太田行高━宗行━行政━行光━小山政光

行範の兄に頼行を置く。太田行高に伯父頼行の養子となって家を継ぐとの注あり。

野口実は系譜を照合し、兼光から太田行尊(行高)までの仮説を出した。「結城系図」(『続群書類従』)の太田行高が伯父頼行の養子となって家を継ぐとの記述などから、頼行の弟に武行=行範(行則)を置き、その子が太田氏祖の行尊(行高・行隆)で頼行の養子となったとする。ただしこれは兼光から行尊までが3世代となっている系譜を説明するための仮説であり、野口は先述の3世代の系譜と、兼光━頼行━武行━太田行尊の4代となる系図があるとしている。

国史大辞典』「小山氏」(稲垣泰彦著)では小山政光を行政の子とする。『栃木県史』は系譜が異なることを指摘するが、本文では『尊卑分脈』説を採る。『群馬県史』は秀郷流藤原氏の説明で野口仮説を採用し、太田行尊を頼行養子とする。『久喜市史』は野口仮説を採用して太田行高を頼行養子とした上で、行政(宗行に改名)━行光━小山政光とする。『戦国大名系譜人名事典 東国編』「小山氏」(市村高男著)では太田行尊━行政━行光━小山政光とする(行尊以前は略)。また、野口実も下河辺氏に関する別の論文で行尊(行高)以降を行高━行政━行光━小山政光として、行光の弟として大方政家を配し、政光の兄弟として太田行広・大河戸行方を兄、下河辺行義を弟としている[3]

また小山政光の兄弟にも異同がある。政光と同世代で太田氏を継いだ太田行広やその兄弟の大河戸行方が、政光の兄とされる系図がある(『続群書類従』第155巻・156巻「結城系図」)。『尊卑分脈』では、行広・行方は兄弟二人とも行政の弟・行光の子、つまり政光のいとこであり、大河戸氏を称したとされる。『久喜市史』『戦国大名系譜人名事典 東国編』は太田行広・大河戸行方を小山政光の兄に置いている。
歴史
幕府の有力氏族

平安時代末期の治承4年(1180年)の源頼朝による反平家の挙兵に大番役で在京中の当主の小山政光の3男、朝光が馳せ参じている。朝光は頼朝の乳母子にあたり(頼朝の乳母は、八田宗綱の女で朝光の実母の寒河尼であり、政光の後妻)、特に頼朝の信頼は厚かったという。また、弟には遅れたものの政光の長男小山朝政・二男宗政も頼朝陣営に参陣している。寿永2年(1183年)には、常陸国で頼朝の叔父にあたる志太義広が乱を起こすと、それを野木宮合戦で鎮圧する活躍をみせ、その後の平氏追討戦、文治5年(1189年)の奥州合戦にも小山氏の兄弟は参陣し武功をあげた。

政光のあとは長男・小山朝政が継ぎ、弟の宗政が長沼氏、朝光が結城氏を名乗るなど、小山3兄弟はそれぞれに独立した勢力となる。小山氏は嫡流で結城家、長沼家などは庶流として下野国南部地区の一勢力となった。正治元年(1199年)には播磨守護職に任じられるなど、鎌倉幕府内でも重用されていた。文永9年(1272年二月騒動が起こると4代小山長村の婿にあたる北条時輔が討たれる。これ以降、一時中央の書物から小山氏の記述が見えなくなる。しかし、建治元年(1275年)5月「造六条八幡新宮用途支配事」によれば、鎌倉中小山下野入道跡が120貫納めている[4]
相次ぐ争乱

7代小山貞朝は執権・北条貞時より偏諱を受けたとされるが、元弘の乱で討死した[要出典]。元弘3年(1333年)、8代小山秀朝新田義貞の討幕の挙兵に際しては幕府から寝返って討幕派となり、義貞に従って鎌倉攻撃に参加し立場を安堵された。建武の新政が始まると、秀朝は下野国守護職と下野国国司を兼任することを認められ、小山氏の持つ平安時代以来の権益を認められた。建武2年(1335年)、北条時行中先代の乱が起きると秀朝は足利直義の命令で武蔵国に出陣したが、北条時行軍と戦って敗れ秀朝は自害して果てた。


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